前項に続き、「能因川柳会創立90周年大会」での記念講演「川柳(らしさ)とは何か」(演者・筑波大学人文社会系教授・石塚修先生)に関して。
1、俳句・俳壇に果たした虚子の役割(概論)
子規の没後、五七五調に囚われない「新傾向俳句」を唱えた河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)に対し、それまで「散文」に傾注していた虚子は1913年(大正2年、39歳)俳壇復帰を宣言、その理由として、俳句は伝統的な五七五調で詠まれるべきであると唱えた。また、季語を重んじ、平明で余韻があり、客観写生を旨とすることを主張し、「守旧派」として碧梧桐と激しく対立した。
1923年(大正12年・49歳)丸ビル竣工時、三菱地所の不動産部長だった、赤星陸治(のちの赤星水竹居)の知己を得て、丸ビルに「ホトトギス」の事務所を構え、以後三菱系の社長、重役、部長、課長などが陸続として「ホトトギス」に入り、政財界との付き合いがひろがる。
1927年(昭和2年・53歳)、俳句こそは「花鳥諷詠」「客観写生」の詩という理念を掲げた。以後、「ホトトギス」は大きく勢力を伸ばし、大正、昭和期(特に戦前)は、俳壇即ホトトギスであり、虚子は俳壇に君臨する存在だった。
ホトトギスからは、飯田蛇笏、水原秋櫻子、山口誓子、中村草田男、川端茅舎、松本たかし などを輩出している。
次回から 経歴の詳細に入る。今日はここまで。
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素晴らしいです。
(いまきちんと調べる余裕がありませんが)かの有名な俳句「春風や闘志抱きて丘に立つ」(虚子)は、俳壇復帰時の作品だったと思います。そう、碧梧桐への闘志だったのです。
有難うございました。
哲男 さま
その通りです。
次回の 経歴詳報で、碧梧桐との関係を述べます。
これも波瀾万丈、面白いはず。
では、また。
道草が人を拡げる高くする 由宇呆