「忙しないったらありゃしない」は母の口癖。「忙しない」が「忙しくない」の意味でないことは、子供心にも状況で判断できた。大辞林によれば【忙しない】は「忙しい」の語幹に形容詞をつくる接尾語「ない」のついた形だという。接尾語(ついでに接頭語)という「苦し紛れの命名」が怪しげで楽しい。引いてみると接辞の一類・・・・語構成要素と続く。これらは、文法的な説明よりも感覚的な解釈が必要に思える。
そこで、岩波書店発行の、「日本語 語感の辞典 中村 明 著」の登場となる。1181ページに及ぶ大著で価3000円也。年金生活の現在では買えなかったろう。必要に応じで捲るのではなく、端から読破してやろうと意気込んだのだが、時間と視力が災いしてすぐに頓挫した。もっとも、この書籍に限ったことではないが。
せわしい【忙しい】いそがしくて気が落ち着かない意で、会話や軽い文章に使われる古風な和語。・・・・有島武雄の『或る女』に「呼吸は霰のようにー・く」一般的には忙しいより精神的で主観的。・・・・・・。
せわしない【忙しない】・・・・永井荷風の『ふらんす物語』に「ー趣味に乏しい生活」とある。・・・・・・・
いわゆる文法的な説明はない。用例を除いては全く同記述である。しかし、団扇には有島と永井の用例はピタリと嵌まっているように思える。両者とも迷わずに選択しているように思える。
ところで、逆引き辞典で「ない」で終わる語で「無い」や打消しの「ない」は、当然除いて、「忙しない」と同じような接尾語「ない」を発見することが出来なかった。
なにかと「忙しない」暮れが過ぎたら、または暮れでも「忙しい」と感じない方は、面白い例をご教示されたい。
さて、団扇は暇なのか?いえいえ年賀状の構想がまとまらないだけのこと。
植竹 団扇さん はじめまして。
澁谷 さくらと申します。
はじめてコメントを書き込ませていただきます。
こちらのブログは、ごく最近から楽しませていただいております。
大阪でうまれて今はごく大阪に近い兵庫に住んでおりますので
ずっと関西。
せわしい、せわしない という表現を日常的に使っているので
楽しく読ませていただきました。
わたし個人の感覚だと、
「せわしい」は、
忙しいことそのものよりも、気分が落ち着かずあわただしいイメージで、
「気」をくっつけて、「気ぜわしい」
と言うことが多いです。
やることがいっぱいだとか、自分があわてている時などの”心境”として
「気ぜわしいなあ、もう」
などと言いますね。
一方、「せわしない」は、
本当に自分がバタバタと行動している時や、そういう人を目にした時などに
使うようにとらえています。
団扇さんがおっしゃるように、感覚的な要素が大きいように思います。
年の暮れは、やるべきことがいっぱいで「せわしない」、
特にすることがなくても「何やら気ぜわしい」
とは、いまの実感です。
せわしない と同じ意味あいでつけられる、否定でない接尾語の「~ない」の例は、
わたしもほかには思いつきません。
なにかあるでしょうか…
文法的なことは苦手なのですが、こんなことを考えてみるのは楽しいですね。
はじめておじゃましますのに、長々と失礼いたしました。
済みません。コメントへのコメントが前後致しました。団扇の「発想の動機」も母の日常会話からですから、文法的な説明より労働や日常の生活実感や、感情の起伏や振幅に興味があります。方言や年代の違い、男女や職業や階層の違いとの関連も興味があります。信州弁で「ビー」は女の子「ボコ」は男の子とずっと思っていたら、違うことに最近気づいたりしています。生前に「なんで、そう言うの」と聞くと「昔からそう言っとる」と応えられて閉口しました。もっと、とことん聞いて置けばと悔やむことしきりです。もっとも、そうしていたら「うるさったい」とか「ひつらっこい」と剣突を食らったかも知れませんが。