「げっ、なんでこれが現代文なんだ」男子高校生がぼやいた。「そうだ、そうだ」の共感の声もあがった。団扇が、現代文の試験の監督で問題を配布していた時の出来事だ。出題のほどんどが鴎外の舞姫からであった。
そうか、団扇が高校生のときから比べても、明治はより遠くなりにけり、なんだなと思った。日本の高等学校の「国語」は、「現代文」「古文」「漢文」とに分類されているが、「なんでかな」は多分教えられていない。教えられていない教師が疑問に思う暇もなく教えているからだと思う。「漢文」が別格の待遇をされている理由も教師は語る暇がないことだろう。
「日本語教育」なのか「文学文学」なのかも定かでないし、「世界の詩の比較」なんていう観点もないような気がする。時間的な制約ではなくて、発想の欠落だと思う。だから、何十年たっても「鴎外の舞姫」を教材に選び続けることの検証がない。
複雑な政治的な背景も絡むが、いわゆる「方言」の位置づけも大変に弱いと思う。ましてや、文字の無かった時代の口承文学なども。
☝ 文京区根津界隈、葦簀に簾に打ち水の通り
一方、「社会科」のなかの「歴史」は「日本史」と「世界史」に区分されていて、時代区分ではない。それぞれ時代順に学んでいって、現代史は時間切れになる。どうして、今から始めて遡る手法が採られないのだろうか。たとえば、同時代のヨーロッパ、中国、日本を並べての比較の意識も低いと思われる。いまだに西暦よりと元号を優先するから、「忠臣蔵の討ち入りの日、イギリスではなにがあったか」という発想さえ抹殺されている。
教員免許の区分も大雑把だから、教科内で専門性を考慮した科目配分をする学校がある反面、「理科」なんだから、「生物」も「化学」もやれなんという職場もあるようだ.
いわゆる「ゆとり教育」について、誰かが失敗だったと言うと、口を揃えて同調する向きがある、文科省の意図は別にして、教科や科目の境目を取っ払って、教育の目的を「総合」の観点でとらえることは正しくて重要だと思う。「保健体育科の教員免許しか持たない門外漢が、なにをごちゃごちゃ」と思っているあなた、真剣に考え直して欲しい。どの教科の授業を受けている時も、生徒学生さんは「全人格」で座っているのだから。
深夜便の「漱石作品の朗読」について語るつもりだったのに。