
☝ 新聞少年の像(有栖川公園内)
新聞少年 歌 山田太郎 作詞 八坂ふじお 作曲 島津伸男
僕のアダナを知ってるかい 朝刊太郎と云うんだぜ 新聞配ってもう三月
雨や嵐にゃ慣れたけど やっぱり夜明けはねむたいな
展覧会の帰りに「像」を発見して、小学校時代の友人TNのことを思い出しました。彼は読売新聞の朝刊を配達していました。(いつからいつまでかは聞いた記憶がありません)我が家は父が「信濃毎日」からの継続で毎日新聞でしたので、彼が我が家に配達したことはありません。
中学校の帰り道(団扇は生徒会の会長、彼は副会長でした)のこと。「おっ、また新しいアパートが建ったな」そう言った彼は生徒手帳を取り出して、番地とアパート名を書き写しました。怪訝そうな顔の団扇に「販売所に知らせるとうんと褒められるんだ」と続けました。彼のご家族は、しっかり者の母親、病弱な父親、とても美しい姉、やはり弱そうな兄の5人家族でした。兄さんは、結婚して子供が小さいうちに他界されました。
団扇も、父と母が家業(経師屋)に追われていたので、買い物は一手に引き受けて、街のおかみさんに混ざって(男の子では僕だけでしたろう)、いつも買い物篭を提げていましたが、世間との接触はTNには敵わないなと当時も思っていました。
高校卒業後、定時制の大学に通いながら、某有名航空会社に就職した彼は、職場で女子社員にぞっこん惚れられて結婚。学業は諦めました。結婚式に出席した団扇は、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」を熱唱したものでした。(ふたりのデートは新橋でしたので替え歌にしました)
「進路決定」は夢や希望よりも、「食べるため、養うため」が一義の時代でした。
当時、国立大学の授業料は月額1,000円。私学との格差が問題だというので、私学を下げるのかと思ったら、国公立を上げました。昨今いくらかの反省が始まりつつありますが。
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