それは例の国立行の次の日のことです。決して晴れがましいとは言えませんが、明日からは寒波という端境の静かな空なのです。こんな天気がよろしいのだと誘われるままに乗り込んだ助手席で、やはりそうだったかという行き先に今日は自分が主人公ではないと言い聞かせているのでした。
止まった所は川べりの野球場のファミリーカーばかりの駐車場。少し歩きなさいと体が囁くこともあって、言われた通りの忍者の足取りでついて行きます。誰もいない。水と背の高い葦原にけもの道。家では聞いたことのない鳥の囀りが、初めてだろうこんな川辺の風景の一つとして聞こえてきます。知っている限りのキキナシを思い出して見るのだけれど、当てはまるものは無いし姿も見えません。ただ分かるのは、竿を伸ばし糸を結び浮きを付けて、そこには魚たちに痛みと束縛をもたらす針が容赦無く括りつけられているのだろうという事だけです。そうして水辺に立つ人を含めた人間の、頂点だという勘違いに一人だけが気づいているのだという大いなる勘違いもあります。
水面に小さな波紋がひとつ生まれました。心に広がる大きな波音に不思議な驚きを覚えるのは、動物として存在する宿命のせいなのでしょうか。何だろうという好奇心と、子供のように手に取って確認をしたいという所有欲が生まれて、針の痛い事も命さえ奪ってしまうかもしれない事も、獲るという本能のまえに消えてしまいそうになるのでした。
言わば細い棒の先に糸をつけて餌を水中で散歩させています。大の大人がそんなことに子供のように真剣になっている姿を見ると、大恋愛の末に結婚をして三人の宝物を育てて来たことがウソだったような気持ちになって、くすくすと笑い出してしまいそうになっています。男の人しか知らない不思議な空間で、大きな手のひらに乗せられてふわふわしている心持ちを楽しんでいました。
サンダルでついて来てしまった後悔やら、何処にもトイレが見当たらない不安が心をよぎった時、少年の声です。この歓喜のために、周りの事などすっかり忘れているように水のそばに立って水面を見つめていたのでしょう。陽射しの中に自然本来の美しさで釣れ上がって来たのは、お店に並ぶ魚たちとは全く違う存在感です。近寄って小さい体を手に乗せて写真を撮る本当の気持ちは、決してフェミニンではありませんからここには書けません。書けないというよりも、言葉ではなく心に直接響いてくる理屈抜きの震えてしまうような感覚ですべてが満たされてしまったということなのです。楽しかったと言ったら罪かも知れません。命だけは奪わなかったのだからと、何度も何度も言訳をしながら、このまま川べりになってしまいたいという気持ちも解らないではないと感じていたのでした。
お魚の幸せもある人魚姫 めぐみ
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