捜しているものは、どうしても見つからないものなのです。見えるところにあるのならきょろきょろとする必要はなく、こんなに焦がれるような思いもないでしょう。忘れてしまわなければ思い出すことが出来ないのと同じ様に、きっとそれは最初から忘却の彼方に存在するもののように見つけてもらうことを待っています。だれ?なに?わからない。でも捜し続けているのだから、きっと何処かにそれはあると私に囁くのは私自身です。見つけられた時には、これだったのですと胸を張って言えるような気がします。捜し続けているのだから、あちらからそう言ってもらえるはずなのです。
机の一番下の一番深い抽斗の底の隅に、見えない穴があったとしたらと考えてみます。そこに転げ落ちてしまっているから見つからない訳ではないでしょう。高い高い青空の、ヒコーキなどで行けるはずもない奥の奥の方には、心みたいなものが棲んでいて、背中を向けてそれを隠しているのかも知れません。見つからないと焦ってしまえば、どんな風に捜せば良いのかも見つからなくなってしまいます。カンタンなことなのです。青い鳥や山のあなた虹のふもとと言った言葉で語り継がれているのと似ているはずです。
見つけそうになったこともあるのです。その時の気持だけは覚えています。私が私であると落ち着いてはいられないで、すべてが私自身だったようでした。覚えておこうと出来るには、まだ成長が足らなかった頃のことと思います。感じだけは残っているのですから、見つけたのは事実です。大人になってからは、これだと言い切れるものには出会っていません。空気の分子と分子の間のような小さな隙間にはあるのかもしれませんが、毎日の大雑把な時間の連続は、そんなところを検証する手段を持ちません。だれもがきっと捜していますね。無いという人は、捜していることに気がついていないかもう見つけてしまったということなのかも知れません。
いっしょに捜してくださいとお願いしてみたくもなりますが、私にもよく分からないものにどなたかが気付いてくださるだろうかと思うと、無理なのだと諦めます。歩き続けることが良いのか、立ち止まるのが近道なのか、結局はサイコロを振るのはかみさまの役目でしょうから、いつものとおりを手段にするしかありません。捜し物は一体何だったんだろう。そう思うことが出来るようになるところまで辿り着けなければ、心の平安は望めないというのが今の私の悟りなのでしょう。
おーい、何時の何処にあるんですかぁー、わたしの something。
挨拶に添えて白紙のプロフィール めぐみ
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