先月の読売新聞では、デジタル教育の特集が連載されていて、初等教育において文部科学省が推進する教科書のデジタル化の是非が論じられていた。北欧などの先進的なデジタル教科書導入例を参考にしながら、いろいろ面で悪影響が出る完全デジタル化は見送られ、当面はアナログスタイルの代表格である紙媒体とデジタル教材のハイブリッドにすることで、国の施策は一応落ち着いたようである。
ここ10年の我が家のペーパーレス化の状況を振り返ってみると、その進行は止まることがなかった(多分どこの家庭でも同様だろうが)。家計における月々の支払のうち公共料金の請求書や領収書はほとんどがペーパーレス化され、依然として紙で受け取っているのは、水道料金と新聞代ぐらいである。スーパーでの買い物のレシートすらも、いくつかの店舗ではアプリによるペーパーレスに置き換わっている。金融機関などでは、証券会社の取引報告はもちろんのこと、銀行の通帳の残高確認も一部スマホに置き換わった。
10年以上前のまだ現役で働いていた頃の話しだが、勤務する大学の学生募集の業務で、志願者向けの大学案内の企画・作成に関わったことがある。その頃からどこの大学でも既に「デジタルパンフレット」が当たり前のように普及していて、冊子体の他にデジタル版もHPに載せていた。どの大学にも広まっていたとは言え、このデジタルが曲者だった(少なくとも私にはそう思えた)。PC画面から覗いても文字が小さくて実に読みづらい。拡大してからスクロールしないと本文の言葉を丁寧に辿ることは無理である。実に面倒くさい代物だった(繰り返しになるが、少なくとも私にはそう思えた)。
志望する大学にどうしても入学したいと思う受験生は、憧れの大学のことが記された案内を端から端まで丁寧に読み込むのではないか。その場合、PCやスマホの画面から覗くデジタル版は明らかに見づらく不向きである。冊子体だったら、ページを丁寧に捲っては読み進め、何度も繰り返し文章を追っては入学後の学生生活に夢を膨らませるのではないか。
古いアナログ世代の私が言うには少し説得力に欠ける点があるかもしれないが、ページを捲って指先から受ける刺激を蔑ろにすれば、情報を入手する有り難味が希薄になる。だから印象に残る度合いも減る。入手した情報は簡単に右から左へ使い捨てとなる。
紙を捲って読むことは、その振る舞いにも些かの注意力が働き、それだけで脳を刺激している。そしてそれは教育的に見れば、学習効果にも必ず役立っているはずである。アナログ教育の代表格である読み書き算盤のリテラシーの伝統は、そういった意味ではもの凄い力強さを秘めていたのである。
我が家に来た小学生の孫娘がタブレットで算数の宿題を解くのを眺めていて、これはすぐにまずいなと感じとった。半分玩具みたいな感覚で画面をタップしていっても、どれだけ頭に知識が詰め込まれるのか怪しく思えたのである。
ペーパーレスが我が家で当たり前になってから、月々の電気代やガス代の請求書・領収書を確認することが減ってきた。スマホのアプリから該当画面を覗いても印象に残らない。すぐに忘れてしまう。だからわざわざアプリを開くのが面倒くさくなる。五十歩百歩のところもあるが、紙媒体だと毎月請求金額が届くと何気なく眺めて、ふと気がつくことがよくあった。「今月の電気代は先月より高かったな」など。ペーパーレスでそんな気づきとはずっとご無沙汰している。
紙の請求書・領収書はとりあえずでも台所の抽斗などに保管することを習慣にしていた。すぐには捨てない。何かの際に再び目にすることもある。ガス代や灯油代の値動きが改めて認識される。このささやかな気づきのプロセスがスマホでは消えている。
繰り返すが、指先の感覚は侮れない。2022年10月15日に「指先の感覚について」を書いたが、改めて述べる。人類が誕生して以来、指先の感触を大事にするアナログ的な社会が脈々と続いてきた。これによって人間の知能も進化してきた。戦後テレビが普及し始めた頃、その悪影響を論じた評論家の大宅壮一が「一億総○○化(○○は差別語として現在は使われない)」という流行語を生み出した。デジタル化とペーパーレス化が同時に進行する中で、人間は確実に指先から退化して馬鹿になる可能性が出てきた。テレビ以上の悪影響がいつかは表れる。満足に字が書けない人間が巷に溢れ出している実態を観察すればこれはよく分かることだろう。何につけデジタル処理される文明が進展していって、そこから人類がお利口になる面もあるがその反動も恐ろしい。退屈に任せて教科書の余白に落書きしていた頃が無性に懐かしい。落書きにもそれなりの意味があった。
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