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 国語辞書をあまり使わなくなった。かつては例会や大会へ参加する際、重くても必ず国語辞書や類語辞典を持ち込んだものだった。今改めて手元にあるそれらを眺めてみると相当の手垢が付いている。もちろん自室に籠って作句に励む場合も辞書は必須アイテム。課題吟ならば、何か発想を探し出す前に言葉のきちんとした本来の意味を確認したり、もっとヒントを広げてくれる類語はないかと調べたりすることは、私にとって作句するうえでの当たり前の準備作業だった。
 しかし今やスマホの時代である。書籍類は重たい。電子辞書でも携行するにはいささか嵩張る。スマホ一つがあればまさに万能。いや、スマホによる情報検索は紙媒体の辞書機能を遥かに凌駕している。紙媒体ツールの限界を感じることもしばしばある。
 いずれ国語辞書は廃れていくのではないか。そしてその要因となっているのはITの進化、インターネットの普及のみならず、辞書の編纂をする人たちの保守的な考え方にもあるのではないか、と私は思っている。
 毎年、年末になると新語や流行語のことがニュースとなる。1年を振り返って、新しく出てきた言葉や言い回しを総括するだが、それらの大方は一時的な話題となるだけで、その後はフェイドアウトしていくものがほとんどである。世の移り変わりの中でそれらのものが言語表現として長く定着し一人前のものになるのか、それとも一過性の現象、単なる流行りだったのか。この行く末は私でも大体予想がつく。前者の確率は1%にも満たないだろう。
 1年程度では見極められないケースもあるだろうが、若者言葉に接していると、百や千に一つぐらいは、なるほど上手い言い方をするなぁと感心することがある。私が感じたそういった言葉はだいたい外れない。そのとおりに社会へ浸透し、一つの単語や慣用表現としてきちんと定着する。これには些か自信がある。
 着実に定着するためには数年かかる場合もあるだろうが、消えることはない持続可能性を持った言葉である。それが本当にそうなのか、国語辞書の編集者はいろいろな角度から見極めようとしているのだろうが、私の目からするとどうしても保守的な印象が拭い切れない。
 編集者は言語に係る社会的事象をつぶさに観察しているのだろうが、今の世の中の動きは実に速い。定着するかどうか判らない言葉の浮き沈みにも目まぐるしいものがある。しかし、それを先取りして辞書に載せたらどうかと歯がゆく感じることを経験する。いい加減にもう辞書に載せたらどうかと思っている単語や言い回しはいくつも思いつく。だから言葉を調べるなら、辞書よりネット検索に頼る。世間もそういうふうになってきているのではないか。
 「右」とか「左」とか、「西」とか「東」とか、普段は滅多に引かない分かりきった単語の意味や解説をマニアックに読み比べる。そういった辞書編集者の自己満足的な記述を楽しむ者も少なくなってきているだろう。辞書の持ち味を出そうとするのは結構なことではあるが、意味を知りたいと誰もが素直に思う言葉のラインナップをまず整理すべきである。生成AIがさらに進化していけば、いずれ国語辞書(少なくとも紙媒体のもの)は消えていく運命にある。



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