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 食べ過ぎの経験というのは誰でもあると思うが、私の人生で最悪の事態は大学1年の時だった。
 2年生に進級する前の3月の春休み、入学時から入会して活動していた山歩きのサークルの合宿があり、その日の夜行列車で東京駅から愛知県作手村(現在の新城市)の方へ向かう予定だった。
 当日の夕飯に麻婆豆腐を無性に食べたくなって、初めての挑戦だが作ることに決め、スーパーへ材料の買い出しに行った。合宿に行く準備は既に整っており、夜行列車の出発時刻は夜中なので時間はまだたっぷりある。スーパーでは、麻婆豆腐の素はどれがいいか入念に見比べて選び、これだと決めたパッケージの裏に書かれてある調理方法を読んで、必要な具材である木綿豆腐に挽き肉、それと葱を買い足した。食肉コーナーでは、いろいろな肉の陳列を眺めていると、鶏肉と豚肉では断然鶏肉の方が安いことに気がつき、パッケージの調理方法には豚挽き肉を用意すると書かれてあったにも係わらず、貧乏学生の性でどうしても鶏肉の方に手が伸びてしまった。
 さて狭い共同使用の台所で一人料理を始めた。ご飯も同時に炊いた。やっと出来上がり、フライパンを自室の炬燵の上に置き、丼飯に盛って食べ始めた。旨い! こんなに旨いものを食べるのは生まれて初めてという感激に浸りながら食べ進めた。
 ところがである。麻婆豆腐の素は4人前で、その分を全部作ってしまったので、箸で食べ進めながら途中でペースが落ちてくる。胃袋の膨れ具合の状況が頭の中の中枢神経に回って、もうそろそろご馳走さまをしろと脳が指令を出して来たようだった。箸の動きを止める。しかし、麻婆もご飯もまだ残っている。これから夜行に乗って愛知方面へ行く。一週間近く下宿を留守にするから、食べ残して保存しておいてもそれは当然もう食べられないもの、捨てられるものになってしまう。
 私の家では子供の頃から、母親に食べ物は粗末にするなと口酸っぱく教え込まれていたので、残飯にして処分するには相当の躊躇いがある。捨てたりしたら栃木に居る母親の視線を背中に感じてしまうのである。
 少し箸の動きを休ませることにした。そして再度の挑戦。今なら、テレビの大食い選手権出場者の心境に近いものだったろうか。額に脂汗をかきながら何とか食べ終えた。
 それからが苦しかった。パンパンに膨れ上がった胃袋が周囲の臓器、胆嚢や肝臓、脾臓や大腸などを圧迫しているのではないか、そもそも胃袋が破裂するのではないかと、人体の解剖の知識には疎い癖にバカげた想像力を働かせながら、しばらく苦しさに喘いでいた。
 そしてふと思い出したのである。中学時代の保健体育の授業で若い女の先生が食べ過ぎた時は四つん這いになると楽になると教えてくれた、そのことである。「食べてすぐ寝ると牛になる」などという迷信みたいなものがあるが、仰向け、横向け(左右どちらでも)になると、胃袋の下に位置する臓器を圧迫するイメージがあって、なかなかそういう体勢になれない。しかし、四つん這いになると圧迫するのは腹の皮(膜)だけであるから、影響が一番少ないのではないか、保健体育の女の先生の言った理論はそういうことなのだろうと素人なりに納得して実践したのである。
 この体勢の効果は少しずつ現れてきた。炬燵の横で四つん這いの姿勢を1時間もしていると、次第に胃袋と体全体が落ち着いてくる。女の先生のそばかす顔を久しぶりに頭に浮かべては観音様のような存在に思えてきた。
 下宿には秋葉原で安く買った冷蔵庫があるが、1ドアなので冷凍室は付いていない。2ドアタイプだったら冷凍機能もしっかりあるので、ひょっとしたら食べ残して保存していたかもしれない。
 その後、予定どおりリュックを背負って東京駅に向かい、サークル仲間と合流した。
 麻婆豆腐は、以後4人前を作ることはなかった。しかしその半分の2人前を作ると、そのくらいは難なく食べきれた。まっ、これはどうでもいい話しだが…。

 

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