草むしりと庭木の剪定を生きがいにしているような老母が昨年11月に亡くなって、この仕事はいよいよ私の担当に回ってきた。もっとも、一人暮らしで私しかいない訳だが(笑)。
春になって庭のいろいろな草花も芽吹いて咲き出したが、これに負けず雑草も生い茂り始めた。5月の大型連休中は読売新聞とちぎ時事川柳の選はお休み。毎週水曜にある太極拳の練習もやらない。時間はたっぷりある。ということで連休前から覚悟を決め、カレンダーにもメモを書き込み、気合を入れて今年の第1ラウンドの草むしりと庭木の剪定に取りかかることにした。
天気に恵まれた日が続いたが、夏日のような暑さも感じる時もあった。まず草むしり。老母のようにしゃがんで一本一本を丁寧に鎌で取り除くことが面倒くさい。やっぱり男の無骨さが出てしまう。目立って生えているところを片っ端から引き抜く方法で作業を進める。その後に気になったところを鎌でほじくり出す。まっ、一応こんな雑なやり方でも大きめのゴミ袋1杯分になった。
次に庭木の剪定に取りかかる。脚立に載って枝切りハサミを握り、躑躅(つつじ)や伽羅(きゃら)、榊、満天星(どうだん)、棕櫚の葉などを刈り取っていく。こちらの方は数年前から既にやっていたことなので、ある程度要領は弁えている。しかし専門の植木職人から見れば、明らかにがさつな剪り方だろう。それでも落ちた枝葉をかき集めると、これもゴミ袋で2袋分になった。
草むしりも剪定も私の性格には向いていない。これは正直なところである。だからかなり不細工なやり方でしか出来ない。
日が延びて毎夜の散歩はまだ明るいうちにやっているが、他人様(ひとさま)の庭の状況が気になった。歩きながら眺めていると、きちんと庭木を手入れして雑草も殆ど生やさず綺麗にしているような家は案外少ない。大方の家はある程度雑草が生えている。高さが10cm以上になるようなものはむしられているが、地面を這うように伸びている草は結構ほったらかしになっている場合が多い。そんなことに気がついた。が、これはほとんど自己弁護。自分のものぐさを正当化させるために気づいたことである。草むしり、庭木の手入れでも、我が老母は決して妥協せず地道にこなした。何と偉大であったことか。
剪定の方は柏の葉、梅擬(うめもどき)、山茶花などが残っている。これは6月中にやろうと考えている。その頃には雑草もまた生え出して、第2ラウンドの草むしりをやらなければならないだろう。そして冬を迎えるまで草むしり作業に振り回されることだろう。
最後に、草むしりしながら雑草って何だろうと真面目に考え込んだ。ホトケノザ、オドリコソウ、ヒメジオン、ハルジョオン、ナガミヒナゲシ、タンポポなど、これらは田んぼの畦道や道端に咲いていれば単なる野草として愛でたり、慈しんだりするが、自宅の庭先に生えてくると雑草として急に敵愾心を燃やしてむしり始める。この意識の落差・転換は人間の身勝手さ、エゴなのだろうか? 雑草としみじみ向き合ってみると、人間のそんなものが見えてくる。
先月NHKの「チコちゃんに叱られる!」を観ていたら、「雑草ってなに」という問題が出ていた。正解は「望まれないところに生える植物(作物生産等の人間の活動を妨害する植物)」だった。期せずして私が考えていたことに合致しているようで嬉しかった。雑草を雑草と定義する本質的で絶対的な根拠はない訳である。スッキリした。
庭先に咲けば引き抜くホトケノザ 博史
一本の泡立ち草は美しい 博史