日々やっているサイクリングのことは今月18日のブログで書いたが、その中での私のささやかな発見について書いてみたい。
自転車のペダルを気ままに漕ぎながら、田園地帯や農家集落のなるべく車の通らない小径を探す。とにかく車は厄介。のんびり走ろうとする者には大敵である。少しでも広い道路は日中必ず車が走っている。だから車1台がようやく通れそうな幅の狭い道を探して走る。
そういう道を見つけて走りながら気がついた。それらはほとんど緩やかに曲がって造られている。昔、自動車などが走っていなかった時代、道とはこんな曲がったものしかなかったことにふと気がついた。かつては何とか街道などいうのが数少ない主要道路で、それ以外はこんな小径しかなかったのだ。まるで体中に張り巡らされた血管のような道だけだったのである。京都の街並は勿論人工的なもの。東京の機能的な道路だって、関東大震災や空襲での焼野原があって幾何学的に整然としたものが改めて計画された訳である。
その大事な生活道路を昔は牛や馬、荷車などが通る。道幅は2~3m程度で充分だったのである。そして暮らしに必要な道路だから行き止まりがほとんどない。ペダルを漕ぎながらバイパスなどの広い道路にぶつかると、そこを渡ればその先にも道は必ず続いている。広い道路がなければ、車の対面通行が難しい細道をどこまでも気ままにペダルを漕いで走り続けていられるのである。
戦後の農地改革、土地改良などで田んぼもきちんとした区画になったが、それと並行して農道も整備された。その中で2車線でどこまでも直線が続く道路はクルマ社会になって自動車の往来も激しくなってきた。しかし、元からある少しくねった道路は舗装されても耕耘機やトラクターが精々通る程度で相変わらず長閑である。
自分の頭の中で、新たに造られた直線道路のネットワークを取り除いて昔の細い道だけだった頃の地図をイメージしてみると、こまかに集落が点在していて、そこだけである程度自己完結する生活を送っていた昔の人の姿がふと思い浮かんだりするのである。
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