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 30年近く前に川柳を作り始めてから推敲の大切さは身に染みて理解できるようになった。その推敲も出来上ったものをすぐ見直すだけでなく、二、三日の時間を置いてからまた作品と向き合う。そして改めて別の措辞が頭に浮かんで書き直す。この満足感が楽しい。推敲の効用を存分に味わうことが出来ると、川柳という短詩型をやっていて本当によかったなと素直に思う。
 しかしこの習慣は恐ろしいもので、川柳だけでなくそれ以外の散文でも推敲が癖になってしまっている。このブログの拙文ですら、実は何回も推敲して作り込んでいる。納得しないと我慢ならないのである。端から見ればどうでもいいような言葉づかいを何度も弄っているのである。他人からの評価より自己満足が優先されている。
 ワープロというのは文章を作る便利なツールであるが、私にとっては、一旦作り上げた文章を推敲することがメインになっている。新規に文章を書く時間より、一旦出来上がったものを見直す方が遙かに長い。私は文章を直すために文章を書き上げているのである。
 それが高じていろいろなメールを出す場合に、少し長いものを書かざるを得ない時は一度下書き保存して翌日などに必ず推敲して送信するようにしている。私信の大したものでもないメールでもそんなことをやっしまう自分を振り返って、ほとんど病気に近い、強迫神経症的な推敲だと思ったりしているが、一向に治る気配はない。
 こんなことがあった。川柳研究会「鬼怒の芽」の柳誌を毎月編集しているが、編集者の役得として毎回「あとがき」を書いている。一つのトピックで200~300字程度。ペンの赴くままに書いている。数年前のある時期、「あとがき」の文章の下書きを数回分書き溜めていた。それを毎月の編集で一つずつ小出しにしていたのである。もちろん小出しにしてもそれを改めて読み直して必ず何度も推敲する。
 ある時、バックナンバーを捲っていてある号の「あとがき」にほとんど同じようなことを続けて二度書いているものがあることに気がついて啞然とした。一度書いてそれを印刷して発行したのだが、ひと月経って前号をベースにして次号を作成する際、そのあとがきが前号の既発表の内容であることは忘れて、下書きのストック分の一つだと思い込んでしまったのだ。そして改めて読み直して「てにをは」を推敲してしまい、それを再び次号に載せてしまったのである。
 この話しにはオチがあって、これを指摘するまで残念なことに会員も誰一人それに気がつかなかったのである。まっ、その程度の内容の文章だったのだろう。
 とにかく、推敲の鬼みたくなってしまったこの癖はもう治らないと思う。



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推敲という病”にコメントをどうぞ

  1. たむら あきこ on 2021年11月3日 at 8:02 AM :

    あはは。
    なんとなく分かるわ。
    あきこも、「推敲の鬼」。
    同病相憐れむ、よね、笑。

    • 三上 博史 on 2021年11月6日 at 3:21 PM :

      あきこさん、ありがとうございます。
      お互い同じ病気の仲間として、頑張っていきましょう。

  2. 神山暁美 on 2021年11月4日 at 7:44 AM :

    誰も気づかなかった……のではなく、内心、師匠も壊れはじめた? と思ったか、師匠に恥をかかせては……との弟子心か? どちらかでは????

    • 三上 博史 on 2021年11月6日 at 3:23 PM :

      神山さん、ありがとうございます。
      配慮があったのなら、嬉しいやら、悲しいやらという感じですが、どうもそうは思えません。

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