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 小松左京原作の映画「日本沈没」を観たのは高校生の頃だったと思う。当時としては最高の特撮を駆使して作り上げられたのではないかと思う。50年近く前のことなので、物語の記憶はほとんど残っていない。ただ観終えた感想として、もし自分が生きている間に万が一にでもそんな恐ろしいことが起きたら、日本を脱出しようとは思わないだろう、そう思った記憶はずっと引き摺っていた。
 要するにそうなったら自分は逃げようとせず、沈没する日本に居続けて死んでもいいかなと、高校生の時から既に思っていたのである。自分が生まれ育った日本という国が亡くなって、逃げてよその国で生き残る。ひょっとしたら家族・親類も死んでいて、身内は自分しかいないかもしれない。そんな状況になってしまったら、自分はその後の人生を生き続けていく価値はないと決めるだろうということである。
 どこまでも長生きできるならそうしたい。お金はたくさんあることに越したことはない。異性にもてるなら何人にでももてたい。そういう最大限の価値を求めるのは幻想だと高校生の頃から冷ややかに思っていた。というか、老けた考えを持っていたのかもしれない。
 何でこんな話題を出してきたかというと、東日本大震災で福島第一原発の大事故が起き周辺住民の強制的な避難があったが、テレビのあるドキュメンタリー番組で、生まれ育った土地から離れたくない農家の高齢者のことが紹介されていて、その心情がよく分かったからである。自分の残りの人生について、現地に踏みとどまることと、安全かもしれないがよく知らない土地へ移って避難生活を送ることとを天秤にかける。そしてそのまま留まりたいと判断する。結果的にはそういうことは不可能なことになるのだが、留まろうとしたその心情だけは大事にしたいと思った訳である。
 日本が沈没するというのは大袈裟な話しであるが、状況の変化によって新たに別のスタイルの生活をしなければならなくなった時、それを受け入れることができる年齢というものが人それぞれにあるはずだ。ICTの普及した社会で、高齢者が今更パソコンをやること、携帯電話をガラケーからスマホに乗り換えること、更にコロナ騒ぎで「新しい日常」に仕方なく馴染むということもそうだろう。年齢が若ければそれらはすんなり受け入れられるが、それがもう駄目になる年齢もある。駄目だと観念することは、可哀そうなことであり惨めでもある。そしてそういった類のことは平均寿命を全うしようとするなら今後誰でも迎えなければならないことだろう。ある年齢からは少しずつ観念しながら生き延びなければならないのが、超高齢化社会の人間なのだとしみじみ思う。



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