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 小学校6年生の頃は反抗期だったが、母親の仕事のことでさらに嫌な思いが重なった。
 昭和40年代前半の頃だが、当時の家庭というのは、農家やお店で商売などをやっている自営業は別だが、父親がサラリーマンの家では、大概の母親は家で内職仕事をしていた。我が家も勿論それに該当していた。
 学校から家に帰って「ただいまぁ!」と声を出すと、母親が干瓢(栃木の名産)の袋詰めをしている。作業する奥の部屋はいつも干瓢の匂い(酸味)に満ちていた。そこでランドセルを下ろしてちゃちゃっと宿題を片付けるとお小遣い(10円)をもらって外へ遊びに出ていく。そういう生活をずっと続けていて、よその家も大体同じような感じだったと思う。
 ところが、6年生になって母親がパートに出るようになった。近くに玩具を製造する工業団地(バンダイとかトミーとかエポックとか大手のメーカーが集まっていた)があって、その中のある会社に時給100円(これは切りのいい数字なので今でも忘れられない)で働き出したのである。
 これが堪らなく嫌だった。母親が言うには、もう小学6年生になったのだから留守番ぐらいはできるだろうということなのである。しかし素直に淋しい。友達の家には、帰宅すると「お帰り」と必ず言ってくれる誰か(祖父母でもいい)が居てくれるのに、我が家だけは誰も居なくなる。かぎっ子という言葉が流行っていたが、自分がそうなるとはまさか思わなかった。3歳年上の姉がいたが、もう中三だったので、そんな小学生のような淋しさはなく、親が居なくてかえって清々した感じだった。
 この不満の所為で当時の私は悪い行いに走ってしまった。今でも憶えているが、台所の抽斗にある母親の財布からお金を何度か盗んだのである。そして駄菓子屋の買い食いでそれを使った。それを見た仲良しの友達が随分金持ちだなぁと驚いていた。当時高価だったシャープペンシルを文房具屋で買ったことも憶えている。これもクラスの友達は驚いていた。お金を盗む度に心の中で「おかあちゃんが悪い!」と責めていた。
 その後中学生になると、姉と同じように母親が家に居ないのは清々するようになり、悪いことはしなくなった。
 このことを今更振り返って思うのは、最初から母親がパートに出ていたら、我が家はそういう家庭なのだと観念して受け入れ、決して不満に思わなかったことだろう。小学生時代の途中で帰宅時の当たり前だった状況が変わるから不満となったのである。
 今の世の中は夫婦共稼ぎが当たり前、学童保育もある。そういう世の中になったのだから、私のような不平不満の体験は過去のこととしてもう存在しなくなっただろう。
 でも、この程度のことでも環境の変化ということは、当時の私にとっては大きな出来事だったのだ。



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