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 私は、地震にはあまり驚かないタイプの人間である。地震に興味がない、と言ったらあまりに不謹慎し過ぎるか。では、10年前の東日本大震災の時はどうだったのか。あの揺れの凄さ、恐ろしさがトラウマにならなかったのか。あれに懲りなかったのか。そう言われれば、確かに私も大変な歴史的出来事を体験をした訳である。毎年、3月11日近くになると、テレビであの地震・津波、福島第一原発の爆発のことがドキュメンタリーやドラマとして放映されるが、私は可能な限りそれらは見るようにしている。同時代の出来事として、しっかり認識して記憶に留めようとする思いは人一倍あると自負している。
 震災の時、当時の私の部屋は寝床近くにテレビが置いてあった。もし、テレビが地デジ対応前のブラウン管タイプのものでなおかつ地震が夜中に発生していたら、テレビが寝ていた私の頭を直撃していたのは間違いない。ぞっとするような話しであるが、喉元過ぎれば何とかで、今では震度2や3程度の地震にはあまり反応しない自分に戻ってしまている。何でそうなのか。それは己の性分と言えるほどのものなので直しようがない。どうしようもない。
 震災直後の数日間の職場は計画停電が実施されていた。ある日のこと、帰宅しようと一人でエレベーターに乗っていた時、あいにくその計画停電にぶつかってしまったのにはびっくりした。そういう停電があることは事前に承知していたが、いざ一人エレベーターの箱の中に詰め込まれてしまうと、わずか数分でも(その後自家発電に切り替わった)物凄い閉塞感を感じる恐怖の体験となった。
 地震に対するこのような私の向き合い方について、なぜそうなのか自分なりに自己分析をしてみると、正常性バイアスの傾向が強いということももちろんあるが、物事に対して不経済な怖がり方をしたくないという思いがあるようだ。怖がるというのは、生きていく上での自己の防衛機制として大切な手段の一つであろうが、無闇に恐怖心を抱くことは、エネルギーの無駄な消費につながる。例えば棚のこけしも倒れない震度3程度で一々慌てていたって仕方がない。そんなことより、まず直下型かそうでないかの咄嗟の判断の方が大事なのではないか。
 そして、この次に自分のところへやって来る巨大地震はどうせ相当先のことだろう、私の生きているうちは来ないに違いない、と密かにどうしても思い込んでいる自分がいる。自慢にはならないが、これも客観的な考え方の一つではないかと思う。みんなが怖がるけど、自分はさしてそう思わない。しかし決して無防備に日々を生きている訳でもない。むしろ自然災害に対して他人以上に過敏なところもある。社会の一般的な認識とは別次元での防災意識を持っている自分がいる。私のこの感覚は川柳的ではないかとも思っている。

  位牌だけ落ち着いていた震度3   博史



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