「安全安心」という言葉が四字熟語としてすっかり社会に定着している。昔はこんな言い方はなかったのではないか。
安全とは客観的な事実を指す。安心とは主観的な心の状態を言う。客観的な安全性が確保されれば、すなわち主観的な安心感は自ずと生まれ出るはずである。
しかし東日本大震災による原発の安全神話の崩壊を初めとして、世の中の安全と思われてきたことがことごとく厳しい目に晒され、いろいろな分野の神話が揺らぎ始めてきた。衣食住の生活レベルにおいても、安全性にほんの少しの疑念が持たれただけで大騒ぎとなるご時世である。安全と保証されても、それをそのまま鵜呑みにしてはいけない風潮の中で「安全安心」という念押しの四字熟語が生まれて広まったのだと考えられる。
安全に対して素直に信用できないところがあるなら、心の中の安心こそが一番の拠り所なのだということで、主観的な世界に軸足がシフトしているとも言える。あまり神経質になって安心感にこだわり過ぎてしまうと、いつの間か安全性についての空虚な論理の泥濘にはまることとなる。
クレーマーがどんなところにも現れるような窮屈な世の中になってきた。安全性を追求することは、運・不運を含めて常に程度問題の側面もあるのだという認識が必要な時もあるだろうに、そんなことはお構いなく、想定外を想定せよ、などと声高にもっともらしく言う輩が多くなってきた。終わりのない議論に陥っていることも知らないのだろう。
安全安心を信奉するとは、生きづらい時代を生きていくほかはないということでもあるのだ。
なんでこんな世になってしまったのか。
なんで暴力的で誹謗中傷を撒き散らす人間ばかりになってしまったのか。
哲学の敗北、というと大袈裟ですが、人間はどう生きるのか、の問いに対するアンサーに哲学の思考がなくなったからだと思います。
60歳を過ぎてからの人生には哲学が必要なのです。
力が入ったコメント、どうもありがとうございます。
私は60歳前から、哲学より観念(西洋の言葉の翻訳語ではない)の世界に少しずつ移行しつつあります。それで句を詠んでいます。
与生さんは若いなぁ…。私の方が年下のような気がしますが。