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 世界は意味だらけ、いや意味だけで成り立っていると思う。意味の無いものは存在しない。非存在と同義である。
 ウイルスや細胞などのミクロの中を覗くこと、宇宙の果てはどこにあるのかと考察すること、いずれも意味への探求である。これらの自然科学的な世界における意味は客観性を追求するものだから、その意味が正しいかどうかの判断は、頭のいい専門家に任せれば少しずつ決着をつけることが可能となる。難しい理論でも頑張って勉強をすれば、並みの頭の人間だってある程度は理解できる。
 問題は、思想・宗教的なものも含めた人文社会科学的知識の意味を価値判断する場合である。主観的な側面のある世界であるから解釈という物差しが必要となる。言い表わされたもの(表現されたもの)をどのように解釈してどんな意味を汲み取るか。これはそれを受け取る人間の力をもろに試されるところがある。
 骨董品の鑑定において、ものすごく価値のあるものについてその価値に気づかないのは勿体ないことである。素人として価値に気づかない、価値を見出せないというのは悔しいと思う時がある。文芸作品なども、言い表わされたもの(表現されたもの)の意味という価値が分からないのも残念な話しでになる。
 私はけち臭い人間なので、日用品なども含めて物という物はなるべく大切に扱い、勿体ないようなことはしたくないといつも考えている。食べ物も粗末にしたくないし、道端に転がっている小石にも何かの価値があるのではないかと思い込んだりする傾向がある。
 そんな性格だから、川柳という短詩型で言い表わされた作品を読むうえでも、何か引っ掛かるものがありそうだと感じたものは、自分なりに解釈して意味を見出し気持ちよく味わいたいと欲する。そうしないと自分のために損をしたような気分になるのである。
 そういう姿勢であらゆる川柳作品を読もうとしてきた。短詩型なので、読む側の想像と解釈でいくらでも好き勝手に意味の価値を掘り出せるというメリットがある。川柳は読んだ方が勝ち、読まない、読み込めないのが損の世界なのである。
 そして、自分自身の内面を含めたあらゆる事象、現象に向き合って何でも川柳として詠んでやろう、五七五の形に入れ込んでしまおうとすることも、そうしなきゃ損であると感じているからである。句の材料は無限にあると信じたい。それが尽きたら私自身はお仕舞になる。



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