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 日頃散歩している川縁の近くに神社があり、そこの竹林の一角に大きな栗の木があった。今年の春に伐採されてしまったので残念ながら過去形の文末表現になってしまったが、毎年9月半ばになると栗の実がたくさん生った。少なくとも個人の私有地ではなさそうなので、栗拾いをする人が結構いた。
 栗の生る時季、朝早く行けば夜間に落ちてきた実がたくさん拾えるのだろうが、私の散歩は大事な至福の昼寝があるので大体午後2時から3時頃となり、もう拾われた後であまり栗は落ちていない。それでも何個か拾い忘れたような実が毬に包まれて転がっており、両足でうまく毬を剥きながら実を取り出して持ち帰ったりした。老母が栗ご飯にしてくれたこともあったが、渋を剥がすのが面倒なのでここ数年はそのまま茹でて食べることが多かった。
 さて2年ほど前の秋、いつものように散歩コースを歩いて栗の木に近づいていくと、栗の毬が一つ落下したのを偶然目撃したのである。何事かと思った。いそいそと近づいて毬を見つけいつものように足で剥いてその実を取り出したのであるが、落下の瞬間が強く目に焼き付いた。
 漫然と歩く方向の景色を眺めていて毬栗の落下に遭遇する。私の目には、それは棒状の光景だった。丸い物体が落ちていく動きを目が捉えることは無理なのである。
 リンゴが木から落ちるのを見て「万有引力の法則」を思いついたニュートンですら、リンゴの落下は、やはり赤い棒状に見えたのではないだろうか? 動体視力に優れたイチローぐらいになると、投げられたボールが止まって見えるくらいだから、きちんと毬栗やリンゴの落下の動きも目で捉えられるだろうが、一般人にはとても無理なことであろう。
 交通事故のまさに起きるところに立ち会ったことが何度もある。自転車の中学生が営業用バンにはねられ舞い上がった田舎道、ブレーキが間に合わなかったオートバイが乗用車の横っ腹に衝突した裏道、右折の軽トラが直進の乗用車にぶつかり横転した十字路、いずれも脳裏に焼き付いていることだが、まずそれらを目撃した時は一瞬何のことか分からなかった。事故だと分かるのに一瞬以上の時間、二瞬や三瞬が必要だったのである。
 テレビドラマや映画のシーンでは、事故が発生したら何事が起きたかすぐに状況を理解して救急車への連絡、警察への通報と速やかな展開になっていくが、これはあくまでフィクションの世界であり、実際には現場で起きたことを理解して慌てるまでに時間がかかり、次の行動へと移る場合にも更に時間を要するのではないか。事態の進展には時間の継ぎ目がいくつもある。
 話はずれるが、映画などの乱闘シーン、チャンバラ(殺陣)や素手の殴り合いは形があってそれに基づいて動き回っている訳で、すべて想定されたものを演じている。これは当たり前のことである。現実の乱闘や刃傷はもちろんそうは行かない。見世物ではないから時間も長くかからない。そんな余裕もない。スポーツとしての空手や剣道、フェンシングなどの試合を観ればそれがよく分かる。
 毒殺などもドラマでは飲んですぐに死んだりするが、実際はそんなことはあり得ない。時間がかかる。切腹などの自害も介錯がなければ出血死するまで自己陶酔の時間の中でゆっくり半日ぐらいかかって息絶えるらしい。かつてそんなことを法医学の本で読んだ記憶がある。
 虚構の世界は虚構として楽しみ、現実は現実としてしっかり認識する。大きな栗の木の下での落下事件を目撃してから、以上のようなことに思いが及んだ次第である。



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