Loading...Loading...

 平成4年頃に川柳と出合い、すぐ虜になった。おもしろくて堪らない。多読多作を心がけて自分なりに上達しようと努力した。だから、その頃に感銘を受けた秀句・佳句は今でも忘れていない。そういった作品を手本にして、自作の研鑽に励んだ訳である。
 平成5年には地元の下野川柳会に入会し、毎月の例会に参加していたのだが、会の長老の方はほとんどが大正生まれだった。私の両親は二人とも昭和3年生まれ。親よりも年上の仲間に囲まれて指導を受け、そして楽しんでいたのである。
 その頃から気がついていたのたが、大会や句会などで、結構作品の使い回しをしている人が多かった(あまり言いたくないが盗用する輩も結構いた)。私は、各吟社の発行する柳誌や大会結果報告を熱心に読んで勉強していた。だから、頭の中のデータとして特選句は勿論のこと、佳作などの入選句も記憶に残っているのである。同じ作品を別の大会や句会で平気でまた出句する。使い回しである。いささか驚いたが、当人に確認したり、抗議するほどの度胸もなく黙っていた。そして思った。80歳前後の高齢者になると、記憶力もかなり低下して自分でも使い回ししていることに気づいていないのではないか。
 またそういった高齢の方が、大会・例会で席題を出句する際、限られた時間の中でおもしろい発想がよく浮かんで上手い句を詠めるなぁと感心していた。まだ新人の頃の私は、席題ではいつも苦吟していた。類語辞典などを必ず持参して、題材のヒント探しをしたものだった。振り返ってみると、すごいなぁと感心した高齢者の席題作品の中には旧作の使い回しをしているのではないかと、今更ながら推定している。
 私も、使い回しをやったことがないと言えば嘘になる。勿論、ギリギリまで課題(兼題と席題)と格闘して何とか五七五を生み出そうと試みる。しかし、何年もやっていると過去の自作が思い出されてくる。万一バレた時の言い訳のために「てにをは」程度を少し弄って出したこともあった。一応は使い回しにはならないが、過去の自作の焼き直しである。
 最近改めて感じるのだが、いろいろなところで目にする作品に既視感を感じるのである。著名な川柳作家でも、どうもかつて活字になった自作(多作の盗用もあるか)の使い回しをしているようだ。頻繁ではないが、すぐに気がついてしまう。やはり年齢的にかなり高くなってくると、作句力も落ちるのだろう。大目に見るべきことなのかもしれない。
 しかし、今後さらに川柳作品のデータベース化がビッグデータみたくなり、生成AIによって作品が詠めるような環境が整った時代が到来すると、使い回しや焼き直しの川柳はすぐに見破られることだろう。そうなると、記憶力が低下し、作句力も落ちた高齢者層には不利な状況になるかもしれない。
 課題吟を詠む力というのは、精々5~10年程度でいろいろな発想が枯渇するのではないか。一人の人間の発想力は、いくら知見を広めて感受性を磨き、多読に励んでも無限ではない。印象吟(嘱目吟)や吟行、奇抜な課題を提示されても、既に広がってしまった自分の発想の範囲はそれ以上にならない。伸び切ったパンツのゴムみたいなところがある。
 そんなことも踏まえながら、私はここ20年近く雑詠主体にシフトしているのだが、そういうふうに作風スタイルを変えてみても、自作の川柳が枯れ始めていることは否めない。うーん(ちょっとため息)。でも他方で、それに対して開き直っている自分も確かに存在する。



この投稿を読んで「いいね」「参考になった」と思ったらクリックをお願いします。
なお、Facebook、Twitterなどのアカウントをお持ちの方はそちらをクリック頂き、また、「ひざポン」ボタンもクリックください(ひざポンは無記名ボタンですのでお気軽にクリックください)。

コメントはこちらから

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Post Navigation

Copyright All rights reserved. SHINYOKAN PUBLISHING illustration by Nakaoka.K