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 40代の頃、休日の土日には必ず晩酌していて、ビールの他にワインを飲んでいた時期があった。リカーショップで安ワインを箱買いしていたこともあった。ポリフェノールは体にいいなどという情報を安易に信じて、それまで両日とも缶ビールと日本酒(1.5合程度)を飲んでいたのだが、土曜日だけは日本酒を赤ワインに切り替えたのである。
 ボトルワインの容量は750ml。一人では一度に飲みきれない。一旦開栓したものを冷蔵庫に保存すると酸化して味が変わる。ある時、知り合いが空気を抜くワインストッパーをくれた。これを使うと1週間程度は何とか大丈夫である。風味があまり落ちないので重宝したものだった。
 問題は、開けて飲み始める半分という分量のことである。晩酌はまず缶ビールを1缶飲んで、それからワインへ移行する。既に酔いはいくらか回っている。グラスに適量(数10ml)を注いでは飲むことを繰り返し(要するにちびりちびりとやるだけのことだが)、半分飲んだかなと思う辺りでストッパーの栓をする。それでその日はお終い。ボトルに目盛りがある訳ではないので、その目安としてラベルの図柄や銘柄のロゴなどを眺めて、ここら辺りが半分ぐらいではないかと推定していた。
 しかし酒を飲む輩は大体がいじましい性格に出来ている。いや、それは私だけが該当することなのかもしれないが、半分という分量の加減を目測する際、酔いが回って頭の箍がかなり緩んだ状態になっている。だから自ずと甘い判断に委ねてしまいがちになる(要するに少しでも多く飲みたいという、ただそれだけのことだけなのだが)。
 750mlの半分は、当たり前のことだが375ml。しかし何杯も注いでいくうちに、開栓してから結果的に半分より多めに(毎回400ml前後か?)いつも飲んでしまう。残りは再び栓をして次週の土曜に持ち越されるのだが、酔いが醒めた目で改めてボトルの胴体を眺めて確認すると、いかに虫のいい測定であったかが判然とする。1週間後に飲むことになる半分の残量は、いつも375mlより明らかに少ない。何か損した感じにも思えてくる。これは朝三暮四の故事の世界そのものである。当時の私はサル並みの頭の人間だったのかもしれない(笑)。こんな飲み方を週末を迎える度に繰り返していた。
 振り返ってみると、私が土曜日の晩に飲むワインは、ボトルの減り具合を眺めながら「まだ半分になっていない」「もう半分近くになってしまった」「あと半分しか残っていない」などと気にしながらせせこましく飲んで酔っていたことになる。そんな当時の記憶は今もはっきり残っている。
 さて話題は変わるが、私は36歳で川柳に出合ってから、すぐその面白さにハマった。人生の後半はこれだ、72歳まで生き続けるとしたら、残り半分の人生となる36年間は川柳を親友にしていこうと、心に決めたものだった。
 当時は、同居している両親も健在でまだ60代、その息子である自分がいつまで生きられるかなど、あまり具体的に考えたこともなかった。そもそも親がまだそこまで行き着いていないのだから、自分の人生についても、70歳以降のことは先の先の遠い話しだと思い込んでいたのである。72歳というゴールに根拠など全くなかった。もちろん、すっかり高齢者になってその歳が近づいてきた現在は、これからももっと長生きしたいというちゃっかりした考え方で日々暮らしているが…。
 ところで、ある年齢からから川柳に目覚め、生涯付き合うことになるのではないかと思い知ってのめり込む。そしてそこから残りの半分の人生を展望するという、当時の私の思いついた尺度は妥当なものだったのだろうか。そもそも、自分の人生を折り返して後半に入るとはどういうことなのか。時系列にすれば直線的で分かり易いものが描けそうであるが、一人の人間の生涯を前半と後半の半分ずつに分けることにどういう意味があるのか、ふと疑問に思った。
 例えばの話しになるが、小学生くらいの子供の兄弟二人に対して、一つの饅頭を親が喧嘩しないようにきちんと半分にして分け与えようとする場合を想定してみる。私の子供の頃の思い出なら、母親が包丁をきちんと当てて切ってくれた懐かしい思い出がある。深く追究して考えてみると、こういった物を分ける半分と時間を区切る半分は似て非なるものに思えてくる。認識の対象としての物と時間は、次元の異なるそれぞれの概念であることに気づく。物のように時間は半分にならない。
 さらに別の話題を持ち出してみる。かつて趣味にしていた私のジョギングのことである。毎月どこかのマラソン大会に仲間と連れ立って出場したものだった。いつも10㎞コースを選んでいた。コースは折り返し地点のあるものと周回するものとの二つに分かれる。いずれにしても、道路脇には1㎞毎に表示が出てくる。前半は順調なペースで走り続け、折り返し地点、中間地点の5㎞をようやく過ぎる。さらに喘ぎがきつくなりながらも何とかゴールを目指す。マラソン大会へ出場して走るということは、毎回こんな苦しみの繰り返しであるが、完走できれば達成感が得られて爽やかな気分になる。
 ひたすら走り続けながら、ランニングハイ、それが萎えてからの疲労感や体の痛み、ゴールが近づいてからの踏ん張りやラストスパートなど、スタートからゴールまでの一連の流れを選手の誰もが経験する。走る前はそれなりのペース配分も考えていたはずだ。しかし、コースやタイムをきっちり半分に分けて作戦を組み立てるようなやり方はしないのではないか。
 スポーツの中でもサッカーなどの球技のゲームには前半・後半と明確に分けるものも多いが、そういった競技でも同じであろう。時系列の中で動きを戦略的に想定していき、振り返って、前半はこうだったとか後半はああだったとかの総括がなされる訳である。前半戦は攻めて後半戦は守りに入る。そういうスタミナ配分の組み立て方を考えた場合でも、それはゲームという直線的な時系列の中で展開されて収まるものである。
 いろいろな場面で登場する、物事をやたら半分に分けたがる思考の習性とは一体どういうものなのだろう。全体があればその半分も必ず想定できる。そしてその半分(1/4)もさらに想定できる。しかし、ボトルワインの量や饅頭1個を半分にすることは可能だが、人生とかスポーツ競技とか、時間に関わるものをきちんと半分にすることは難しい、やってもあまり意味がない。
 西洋思想史においては、古くから時間に関する哲学的な考察がなされてきた。時間は分けられるものではなく、その本質はそもそも分けられないことにある。学生時代に読んだ田辺元の哲学入門書にそんなことが書かれてあった。今でもうっすらとした記憶がある。
 「ゼノンのパラドックス」というのがあって、「アキレスは亀に追いつけない」とか「飛んでいる矢は止まっている」とか、いろいろなパラドックスが古代から語り継がれている。これらは饅頭を切るような感覚で時間を分けようとするから、こんな詭弁が生まれたのである。饅頭を1個、2個と数えることと、時間を1時間や2時間、歳月を1年や2年と数えることには根源的な違いがある。饅頭を1個ずつ持ち寄れば、持ち寄った数が単純に合計となる。人それぞれの人生という時間をいくつ取り上げても、それを積み上げて合計することには無理がある。
 50年以上前に学んだことであるが、ワインボトル、川柳と人生、1個の饅頭、マラソン・球技、これらを並べて思いついたことを記してみた。

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