
川柳の評価基準を探る――「没句」は「駄作」なのか?
川柳大会や句会に参加していると、いろいろな経験をすることがあります。自信作があっさり没になったかと思えば、それほど期待していなかった句が上位に入る。さらに同じ句を別の選者に出したら、今度は天位になったなど――。川柳を長く続けている人なら、何度も経験しているのではないでしょうか。二人選の場合では一人の選者が「天」にとった句がもう一人の選者は「没」という場合もよくある話です。
では、ここで課題です。果たして川柳には客観的な「評価基準」があるのでしょうか?
良い川柳の条件とは
一般的には、次のような要素が評価につながると考えられています。
- 「課題」を的確に捉えているか
- 五七五を基本としてリズムがよいか
- 言葉に無駄がないかまた説明句になっていないか
- 「穿ち」「笑い」「軽み」があるか
- 発想に新鮮さや意外性があるか
- 情景が浮かぶような句か
- 読後に余韻が残るような句か
- 作者自身の発見や実感があるか
ところが、これらを全部満たせば必ず入選する、というものでもありません。ここに川柳の面白さと難しさがあります。
「上手い句」と「選びたい句」は違う
例えば、【定年後名刺に趣味が書ききれぬ】(柳山)という句の場合に、定年後の生活が生き生きと見え、「名刺」という具体物によって多趣味な人物像を描いていて、ユーモアもあり、分かりやすい。という評価をする選者もいますし、別の選者は「やや説明的」な句として採らないかもしれません。
選者は何を選んでいるのか
選者は単に「上手な句」を順番に並べているわけではありません。何百という句の選をしながら、「おや?」と手を止める一句があります。そこには発想の新鮮さがあるかもしれません。人生の実感かもしれません。笑いかもしれません。あるいは、「心を動かす何か」かもしれません。
川柳の選では、この「選者の心を一瞬止める力」が非常に重要です。この「一瞬止める力」がないとそのままその句は没句の中に埋もれてしまうことになります。
没句=駄作ではない
ここで大切なのは、没になったからといって、その句が駄作とは限らないということです。選者が変われば評価も変わります。同じ選者でも、選をする時期や並んだ句によって印象が変わる可能性があります。
もちろん、何度出しても評価されない場合には、題の捉え方や表現をもう一度見直す必要があるでしょう。しかし、一度の「没」だけで句の価値を決めてしまう必要はありません。むしろ没句には、「なぜ選者の心に届かなかったのだろう」と考える材料があります。その問いこそが推敲につながり、次の一句を育てることになるのです。
「選者研究」をどう考えるか
ここから選者研究の問題も見えてきます。選者の作風や過去の選句を知ることは、決して悪いことではありません。その選者が何を川柳に求めているのかを考えることは、自分とは異なる川柳観を学ぶ機会にもなります。ただし、気をつけないといけないことは、選者に合わせることだけが目的になれば、自分の句ではなくなってしまいます。
「選者を研究する。しかし迎合はしない」
この距離感が大切なのではないでしょうか。
川柳に「100点」はあるのか
数学なら答えがあります。しかし文芸には、唯一の正解というものはありません。
技巧、発想、共感、独自性、余韻、言葉の力――さまざまな要素を総合して一句を評価することはできます。それでも最後まで残るのは、人間の感性です。だから川柳は面白い。
全員が同じ句を一番に選ぶ世界だったら、句会はずいぶん味気ないものになるでしょう。
ある選者には届かなかった一句が、別の選者の胸には深く届く。そして読者には、選者とはまた違った読み方をされるということなのです。
川柳の価値は、一回の「入選」「没」だけでは決まらない。
そう考えると、没句を見る目も少し変わってきます。選から漏れた一句を捨てる前に、もう一度読んでみる。「この句には、まだ何かあるのではないか」そこから次の推敲が始まり、時には「没句」が将来の「天位」へと生まれ変わることもあるのです。
今日は川柳の評価基準について考察してみましたが、如何でしたか?
選者の感性によって選は行われます。そこには絶対評価はない世界です。従って没句から学ぶ姿勢がとても大切になります。自分の創作した句は我が子のように大切な句となります。その句をそのまま没とせず推敲を重ね陽の目を見ることも可能です。その根底には自分の句への愛情が必要なのだと思います。
柳山
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