60年以上前の小学生の頃、靴下に穴が開くと、母親がよく継ぎ接(は)ぎで繕ってくれたものだった。しかし、この継ぎ接ぎの感触があまりよろしくない。その凸凹感を足の裏がもろに感じとってしまう。新品を買ってくれればいいのにと少し情けない気持ちになったものだった。そうは言っても、昭和30年代から40年代の当時は、どこの家庭でも靴下のみならずズボンの膝頭などに継ぎ当てすることもさほど珍しくなかったと記憶している。
倹しく暮らしていた家庭では、そもそもどんなものでも駄目になったらすぐ捨ててしまうという発想があまりなかった。駄目なところを直してまだまだ使い続けようと考えることが当たり前だった。もう着たり使ったりするのは無理だとようやく見放された衣類やタオル・手拭いが雑巾に縫い直されるのが一般的だった。ファスナーやボタンが付いていれば、もちろんそれらは外して何かに再利用していた。大量生産・大量消費の世の中となって久しいが、今では想像できないような暮らし方をしていたということである。
さて齢を重ねると物事に対する興味が薄れていき、拘ったり執着したりするものも少なくなってくる。私が衣食住に関して既にあまり頓着していないことは、2020年4月23日付けの「川柳と衣食住」に記したが、今年の9月に70歳の古希を迎えようとしている近頃は、その傾向がとみに強くなってきていると密かに実感(自負?)している。4年前から始まった独居生活による影響が大きい。
一人暮らしは寂しい、侘しいものである。丸一日誰とも会わないと何か声を発することもない。そんな時にはコーラスサークルで習っている歌を家の中で歌うこともある。次回のレッスンのための復習みたいなことをして声帯が衰えないよう心がける。
人と会話せず世間とあまり関わらなくなってくると、認知症の発症リスクの観点からもよろしくない状況になるだろう。しかしそうは言っても、無理して誰かと会おうとするのも案外ストレスが生じるものである。そこら辺りは自然体の生活がいいのかもしれない。何事もほどほどが大切である。
勝手気ままに生きるためには、単身生活というのはベストポジションでもある。要するに何につけ家族の誰からも文句を言われる筋合いはない。家事をやって何かでしくじってもすべては自分の責任。家の中を歩き回って、押し入れの鴨居に額をぶつけようが、座敷の敷居に蹴躓こうがすべては己が不注意でやらかしたことである。三度の食事の用意で、たまに料理に失敗しても勿体ないと思うから、よほど不味くなければ無理してでも食べてしまう。それらがさほど苦痛にならない。惨めだと感じることもあまりない。
着る物についてはかなり前から頓着しなくなっているが、最近我ながら実感しているのが、穴の開いた靴下の扱い方である。以前は靴下にある程度の大きさの穴が開くとそのままゴミとして処分していた。ところが、あまりその穴の開き具合が気にならなくなってきたのである。
穴が開いた靴下のそもそも何が問題なのだろうか。暇に任せてそんなことに思いを巡らせてみた。他人に見られなければ別に構わないではないか。毎日のように散歩するので、その途中で小石が靴の中へ入ってしまうことがよくある。歩きながら違和感を感じると靴を脱いで小石を振り落とす。靴下に穴が開いていると、そこから中へさらに小石が紛れ込んで、これを取り除くには靴下まで脱がないと駄目である。さすがに道端でそこまでやるのことは面倒くさい。家に着くまで仕方なく我慢しながら歩くこととなる。しかし最近は小石が靴の中へ入ることも少なくなってきた。散歩の達人になったのかもしれない(笑)。そうすると、穴の開いた靴下を履いたまま歩いても何ら支障は起きない。
問題なのは、靴を脱いで座敷の布団に座るような人との集まりである。さすがにこういう場合は穴開き靴下であることをあまり見られたくない(当たり前だが)。しかしそこだけ用心すれば、問題は発生しない。要するに、家の中で動き回っているうちは全く平気なのである。
靴下を全く履かない生活をしている男性タレントがいるが、その気持ちもある程度理解できる。少なくとも夏場の靴下にどれほどの意味があるのか。メッシュの夏用の物があるが、それを履いても私は鬱陶しさを感じる。夏はやはり素足がベストである。散歩の際は、靴擦れ防止のために仕方なく穴開き靴下を着用することにしているが、ほんとはこんなものを履きたくない。
ダメージジーンズというのがあるが、穴開き靴下もダメージソックスとして流行らせればいい。靴下のメーカーは消費が落ち込んであまりいい顔をしないだろうが…。
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