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 先月東京の母子家庭で母親が3歳の娘を自宅に置き去りにして8日間外出し、餓死させてしまった事件が明るみに出た。何とも残酷で非情な事件である。確かこれと似たような事件が何年か前の大阪でも起きていたことを思い出した。
 幼い女児の憐れさを思うと誰でも耐えられるものではないだろう。三歳とはいえ、どのような思いで息絶えたことだろう。死というものに対して観念することもできない年齢で死ぬことは、想像しただけでも痛ましい、辛いものがある。いや想像できないからなおさら痛ましく辛いのかもしれない。そもそも子供が死んでしまうということ自体がどういう状況であれ残酷な話しになってしまう。
 ある程度の年齢に達すると人間は、いつかはやって来る自分の死に対して心の準備をして観念することができる。何かの事件や事故に巻き込まれない限り、大方の人は最終的には観念して死ぬ。いきなり死ぬことは滅多にない。
 例えばの話しを持ち出す。もし神様から「お前は100歳まで生きられる。ただし100歳の誕生日には必ず死ぬ」と宣告されたらどう思うだろうか。まず、100歳まで長生きできることは素直に嬉しいことだろう。それも神様が保証してくれるのだから安心である。しかし、80歳、90歳と歳を重ねるにつれ、死ぬこととなる100歳が1歩ずつ近づいてくる。やはり少しずつ覚悟を決めていくのではないか。死に至るまでの生き方についても、自分と向き合って決めていくことだろう。ある意味では羨ましい生き方、死に方にも思える。
 そういったやり方とは真逆な生き方、死に方が、幼児の段階で死ぬ、それも憐れな状況の中でそうなるということではないか。
 亡くなった娘の母親が一体どんな人間なのか、生い立ちからそこに至るまでのこともいずれ詳しく解明され、事件として司法により適切な判断が下されることになるだろうが、死ぬことの無念さも分からず死ぬことは、無念以上の悲しみを周りに与える。

 



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