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 読売新聞東京本社版に、月1回程度で連載される[言の葉巡り」というコラムがある。このブログでも以前に「思考の文脈」(2025年7月6日)で一度紹介したことがあったが、4月30日付けの「『当たり前』だが面白い」(伊藤剛寛)に興味を持った。

 伝説的漫画家・つげ義春さんが3月に亡くなった。代表作「ねじ式」に、とぼけたやりとりがある。「ぼくは必死になって医者を捜しているのです」「するとお前さまはイシャを捜しているのだね」――。
 「同義反復」(トートロジー)は、言葉の無意味な繰り返しをいう。「雨の降る日は天気が悪い」といった当たり前のこと。ただ、場合によっては、意味を強めたり、おかしさを生み出したりする。「ねじ式」はこう続く。「きみはこう言いたいのでしょう」「イシャはどこだ!」
 「デスティニーって、運命だと思う」「笑ってごらん。きっと、笑顔になるよ」(「あたりまえポエム 君の前で息を止めると呼吸ができなくなってしまうよ」、氏田雄介著)。当たり前のことを、もっともらしく語ると詩のような味わいが出る。深い意味があるような錯覚、滑稽さを楽しめる。
 同じような趣の、政治家の発言も話題になった。お笑いコンビ・COWCOW(カウカウ)が歌う「あたりまえ体操」は、翻訳版もあり、面白さは外国でも通じるようだ。「右足を出して左足出すと……歩ける」
 ちなみに「当たり前」は、「当然」の誤記(あるいは当て字)「当前」を、訓読みしたものという。
 短歌には、比喩などを使わずありのままを詠む「ただごと歌」という伝統があるそうだ。現代では奥村晃作さんの作品が知られる。
  次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな前を向く
  運転手一人の判断でバスはいま追越車線に入りて行くなり
  梅の木を梅と名付けし人ありてうたがはず誰も梅の木と見る
 独自の視点による発見が、当たり前のことに、新たな命を吹き込んでいる。世界がちょっと違って見えてくる。
 これまでの常識が通じない時代になった。「あたりまえポエム」のばかばかしさも、癒やしをもたらすかもしれない。愚作を。「当たり前のことってね、珍しくはないんだよ!」

 このコラムの中で紹介された奥村晃作さんの作品では、一首目と二首目に私は惹かれた。一首目について言えば、車の運転は前を向かないと出来ない。それは生きていかねばならぬ人生も同じであることを暗示しているようである。さらに深く味わおうとすれば、前を向いて運転することには生活感が汲み取れる。ノルマをこなそうと働いている人たちの健気な横顔を覗かせてくれるようでもある。いずれにしても、ベタな教訓調の臭いを払拭して、前を向くことの意味をさらりと詠んでいる。二首目は、バスが追越車線へ車線変更する光景である。その数秒の時間は運転手一人の判断に乗客の命を預けているようでもある。バックシートドライバーという言葉があるが、車内の前方にいる乗客の中には、吊り革に摑まりながら運転手さんのハンドル捌きを何気なく眺めている人もいたことだろう。自分の心の中で車線変更という動きをどう受け止めたか。ほんの僅かな緊張が走っただろうか。作者は上手い見つけ方をしたものである。
 私はこのコラムを読み進めながら、自分が所属している「川柳展望社」(大阪)のことを思い起こした。もう30年近く会員として雑詠作品を季刊の柳誌「川柳展望」に毎号載せてもらっている。
 川柳は各吟社によって作風が異なるところがある(当たり前のことだが)。吟社に入会して出句・投句し続けていると、その吟社の作風に飼い馴らされてくる。もちろん、肌が合わない、厭きてきたと感じればいつでも自由に退会できる。しかしそれなりの伝統と規模を有する吟社には、類は友を呼ぶような、愛好家を惹き付ける力が内在しているようである。いつの間にか似たような傾向の句を詠む者が自然と集まってくる。
 この柳誌を捲れば「当たり前川柳」(短歌の言い方を真似れば「ただごと川柳」となるが)の作品をいくつも目にすることができる。それが展望調なのだと言っていいのかもしれない。そういった作風を私は毎号楽しんでいる。
 日常のちょっとした気づきや変化を題材にして平易に詠んでいるが句が実に多い。難解な言葉はあまり用いようとはしない。私も会員として長く続けていると、いつの間にかこのスタイルにハマってしまっているようだ。気がつけば、締切に追われながら毎回提出する作品は、自分の身の回りのちょっとした経験を題材にした当たり前川柳ばかりを詠んでいる。これが倦まず弛まず現在まで続いている。当たり前(ただごと)ということに自分が相当馴染んでいると、今更ながら思い知る次第である。
 以下に、直近の205号(2026年 春)の中からいくつか拾い上げてみる。

  買い物をすると取られる消費税
            塚原羊雲
  終活のゴミも出ているゴミ置場
            土屋天九
  いらないが一応とっておく名刺
           橋倉久美子

 どれも当たり前のただごとを詠んだ作品だと言えよう。一句目は、何かを買えば必ず取られるのが消費税であること、二句目は、ゴミ置場なのだから終活のゴミが出ていても不自然ではないこと、三句目は、名刺を受け取ればとりあえずはすぐに処分しないことを淡々と詠んでいる。
 これらのことについて、「だから何なの」とツッコミを入れたくなる気持ちが生まれるかもしれない。しかし繰り返し読んでみると、どことなく味わいが出てくるのではないか。
 買い物と消費税の関係については、生きている限り死ぬまで付き合わされる腐れ縁みたいなものである。社会との関係でこれ以上の腐れた縁はないのかもしれない(一句目)。終活のゴミを出している人はどんな気持ちでそうしたのだろうか。ゴミの現物から推し量ってみたくなる。余計なことだが、その人の人生を辿りたくもなってくる(二句目)。いらないとすぐに決めつけられた名刺は、受け取る時には相手から両手で丁寧に差し出されたものではないか。無下に扱いたくない気持ちが湧いてきてもおかしくはない。名前が記されたものを即座に捨てるということに、些かの躊躇いが生まれたのだろう(三句目)。
 これらの身近な物事について、読み手もちょっと思いを巡らせば、作品に深みが現れてくることを感じるはずである。それはもちろん作者を離れた、鑑賞する側の勝手な世界である。しかし作品のバトンは既に渡されているのだから、勝手な世界について文句を言われる筋合いはない(何か大仰で喧嘩腰のもの言いになってしまうが)。
 短詩型文芸作品は起きた出来事や事実を述べただけであると宣う、頭の固い連中がいる。それでは「事実を述べる」とは一体どういうことなのだろうか。そもそも、そんなことが客観的に出来るのだろうか。一切の感情を抜きにして淡々と描写することは、突き詰めれば、人間にとっては不可能な行為なのではないか。
 すべての文章には書く者の個人的な意思が込められ感情がいくらかでも宿っている。私は科学には疎い方なので明確には言い切れないが、数式とか記号ばかりの自然科学の学術論文なら、言語がかなり人工的になるから100%に近い客観性が担保されるのかもしれない。しかし自然言語で成り立つ表現の世界では所詮そんなことは無理である。どうしても主観が入り込んでしまう。
 取り上げたこの三句のそれぞれには、作者の気づきと思いがさらりと(ある意味で客観的に)詠み込められている。それは決して深刻なものではない。しかし、素直な気づきから素直に詠まれた作品を深く読んで何かを汲み取ることは出来る。それが「当たり前川柳」の醍醐味であろう。この醍醐味は分からない輩にはいつまで経っても分からない代物なのだろうが、一度味わい方が分かってくると病みつきになってしまうポテチ的世界でもある(と、私は思い込んでいる)。
 当たり前のトートロジカルな世界からさらに一歩踏み込んで、パラドキシカル(逆説的)な言説を詠んだ作品もおもしろい。当たり前に対して、「逆も真なり」のアンチテーゼを提起するものである。川柳展望にはこの傾向の作品も多く詠まれている。205号からさらに取り上げてみる。

  まずいけど買ったからには食べる米
              興津幸代
  捜すのはやめるに限る捜し物
              三村 舞
  ヒト科ほど厄介者はない地球
              吉崎柳歩
  人付き合い苦手なのよとよく喋る
            みよしすみこ

 買ったからにはまずい米でも最後まで食べる。捜し物は途中で諦めるに限る。人類ほど厄介な者は地球にいない。付き合い下手と自嘲しながらもよく喋る人がどこにでもいる。どれもパラドキシカルな措辞を駆使している。繰り返し読んで味わえば、パラドックスの中に情景が浮かび出てこないか。
 まずいと思ってもわざわざ買って来たお米なのだから、それを粗末になんかできない。米櫃が払底するまでは何とか工夫しながら炊いて食べ尽くそうとするのではないか(一句目)。何事も諦めが肝心、だから捜すのもやめる。きっとすっかり忘れた頃にひょいと何所かで現れることだろう。日々の暮らしにおける困りごとなんて大方はそんなものである(二句目)。地球温暖化などを踏まえると、ヒト科という生物ほど厄介な存在はこの地球にはいないのではないか。文明が進展していけばいくほどそれは顕著になっていくようである。トランプ大統領の言動を見れば分かるように、それはどうしようもないことでもある(三句目)。人付き合いが苦手であるなら、コミュニケーションの方も少し抑制的になればと思うのだが、そういうタイプの人間ほどよく喋るものでもある。どこか変ではあるが、そういう変なタイプの人間がある程度存在して世の中が動いている(四句目)。
 トートロジーとパラドックスは、川柳を詠む上での対義語になっているのではないか。川柳初心者に川柳展望の当たり前作品を読んでもらったら、当たり前が大しておもしろくなかったと白状した人がいた。逆説作品を読んでもらったら、何故そうなるのか戸惑った人もいた。それはそれで仕方がない。
 しかし、十七音の表現に向き合って理屈から攻めていたら、川柳は味も素っ気もない代物になってしまう。トートロジーもパラドックスも理屈っぽく思えて完全に理屈だけの世界ではない。微妙な言葉の使い方、運び方にポエジーを汲み取れば、トートロジーとパラドックスを超えた主観的地平が見えてくるはずである。
 最後に付け加えれば、日常生活のトリビアルなものの中の何かに気づいて感じるには、観念的なものの考え方も必要である。観念的な態度で物事を観察し続けていると、トリビアルなものもトリビアルではないことに気づいてハッとする。何事も深く掘り下げられるものである。上手く掘り下げられて貴重な鉱脈にぶち当たれば、後はそれを作品に詠むだけである。それで満足すれば自分だけの至福の時間を得られる。川柳の究極はそれ以上でもそれ以下でもないのではないか。

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