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 二十代半ばの頃のことである。職場の新人女性職員が、毎日通勤で乗り入れている自家用車を所定の駐車場に停めていたら、ある日接触事故を起こされていた。ボディーを擦(こす)られていたのである。それは夕方退勤して車に戻る際に本人が気づいた。
 その日はそのまま帰宅したのであるが、翌日先輩の男性職員に経緯を話して相談してもらったという。その男性職員が熱心に話しを聞いてくれていろいろと対応したようだった。
 まず二人で改めて現場に向かうと、擦った相手の車のボディーの塗料が地面に残っていた。そして同じ色が女性職員の車にも付着していた。そのボディーカラーは珍しいもので、女性職員の記憶では、ぶつけられた当日の朝、自分の車の隣にその色の車が駐車していた記憶があるという。ぶつけた方の車を捜し出せるかもしれない。二人で休憩時間に何百台も停められている駐車場をくまなく回って、それらしい車を発見した。車は少しへこんでいた。通勤車両と駐車場を管理している部署に行ってナンバーを照会すると誰の所有であるかがすぐに判明した。
 さて、それからである。お昼休みに、たまたま私もこの事態の成り行きを聞いていた。これからどう対処するか。ぶつけたと思われる該当職員にいよいよ会ってみるかということになったようだった。みんなで行けば怖くない。このままにしていたら当てられ損である。
 その時に私は、中学生の頃に父親の車が当て逃げされたことを急に思い出して、話しの仲間から外れることにした。それはこんなことだった。
 年末の年賀はがきの仕分けアルバイトを高校生だった姉がやっていて、夕方父親が郵便局へ姉を迎えに行くことになった。冬休み中で暇だった私も同乗して郵便局に向かい、仕事の終わった姉を乗せての帰り道、裏道の小さな十字路で父親の車が左から来た小型トラックに軽くぶつけられた。助手席にいた私も目撃したが、こちらの方が優先道路なので相手の方に過失がある。急いでいて注意が足りなかったのだろう。父は路肩に車を停めて話し合いをしようとしたが、何とその車は逃げてしまったのである。当て逃げである。トラックなのでドアに会社名がしっかりと書かれてあった。
 家に帰ると父親は、決して許すものかと興奮していた。電話帳を取り出して、どこのどいつなのか調べ上げたのである。私も運転していた男の顔を目撃していた。
 それから数日経過したが、どうも父親がその会社へ連絡した様子はなかった。ほとぼりが冷めているようだった。
 事故が起きてから、その解決のために電話をかけたり、判明した会社へ出向いたりすることはなかなか勇気のいることだ。テレビドラマのように物事は展開しない。結果的には仕方なく諦めるケースも多い。当時40代だった父親はなぜ行動を起こさなかったのか、中学生の私には理解できなかった。少し歯痒い思いも持った。しかし大人になるにつれ、世の中に起きる事件や事故には、外野が簡単に思いつくような筋書きどおりにいかないものがほとんどであることが分かってきたのである。
 駐車場での事故のことに話しを戻すと、結果的には誰も何も行動しなかったのである。自分たちの思い込みだけで、ぶつけた相手を勝手に間違えて決めつけていたのだとしたら、加害者扱いしたことに対して大変失礼な振る舞いになるだろう。同じ職場の中で気まずい関係となる。そんなことを考え出すと、会って確認しようとする行動への躊躇いも膨らんでくるというものである。私は自分の父親の経験から、薄々そのようなことには気づいていた。だから事故には当初からあまり積極的には関わろうとしなかったのである。
 もちろん何か事が起きた時、何も逡巡することなく行動に出る果敢な人間もいるだろう。そして更にしぶとく追及するタイプも確かに存在する。でもやはり日本社会では、それが大多数ということにはならないのではないか。部外者から見たら、どんどんやればいいのにと思うことでも当事者になると案外そうはいかない。泣き寝入りというほどでもないが、怯んで二の足を踏むことはよくあると思う。
 父親の事故は昭和40年代半ば、職場の事故は50年代半ばのことである。何でもかんでもいきなり警察沙汰にしようとする発想があまりなかった(古き良き?)時代だったのかもしれない。

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