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  朝明第8号(2020年1月1日発行)特集[令和-捨てられるもの捨てられないもの]
  「どうしよう?どうしよう!」  三上 博史

 今年の三月、新元号の話題で世間が大騒ぎしている最中、安倍内閣の某閣僚がこのことでテレビのインタビューを受け、新しい元号が何になるのか全く関心がありません、と言い切った。これを何気なく茶の間で見ていた私は大変驚いたが、同時に痛快な気分になった。全く同感だったからである。
 元号がどうなろうと、単なる名称変更で世の中という中身が変わることはあり得ない。歴史とはそういうものではない。明治から一世一元となったが、年号と社会の動きは全く連動しない。「大正デモクラシー」も「昭和恐慌」もそのネーミングはたまたまその年号だっただけのことである。
 さて「捨てられるもの」と「捨てられないもの」とは、二項対立的な概念だろうか。モノ余り、情報過多の時代が続く中で「捨てられる」モノや情報はさっさと捨てていくものである。「捨てる」に、わざわざ可能の助動詞「られる」をくっつける必要はないだろう。ということは、話題の焦点は自ずと「捨てられない」モノや情報に絞り込まれる。
 ここまで書いてきて、いろいろほざいているがこの特集のテーマを決めたのは編集委員長のお前だろう、とお怒りになる向きもおられるかもしれない。朝明の毎号の特集テーマは、編集会議でいろいろ議論されたうえで民主的に決定するので、手続き的には全く問題ないはずなのだが。
 実はこの歳でカミングアウトすると、私は多分人より記憶力がいい。自分の人生をとうに折り返している現在、歳を重ねる毎にその力が弱まっていることは、人から指摘されるまでもなく当然自覚しているが、いい事もいやな事も忘れることがあまり好きではない性分なのである。
 これを長所として活かし、高三の受験時代、暗記力だけで入試を乗り切った実績がある。受験勉強などというのは、理数系の科目も含めて何でもかんでも憶えればいいものばかりで、憶え方の要領のよさで大学入試の合否判定が決まってしまう。これは言い過ぎだと指摘されそうであるが、強ち間違いでもあるまい。
 物事に対して忘れるということを嫌がる私の脳味噌は、モノや情報を捨てるという行為についても面倒くさがる傾向がある。全く憶えがない、いくら記憶を呼び戻しても思い出せないような代物なら、そそくさと捨てて処分することに躊躇いはない。しかし、捨てようとする対象に僅かな記憶の残滓でもあると、もう捨てられなくなってくる。
 世間で騒がれているゴミ屋敷について、私にとってこれは他人事ではない。偶に自分の部屋を掃除して綺麗にしようとしているが、なかなか捨てられない。過去(記憶・思い出)が邪魔をするのである。
 しかしいずれ独り暮らしになる。遠方に嫁いだ一人娘からも既に終活のことを仄めかされている。充分承知しているはずなのだが、どうしよう?どうしよう!



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