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 馬から落馬する。これは重言と言い、国語の授業では誤った言い方と習った覚えがある。
 短詩型文芸においては、限られた音数で詠まなければならないという制約から、無駄な表現は言葉が被ったもの、諄いものとして嫌われている。重言などはもってのほかの措辞となる。
 しかし世の中の日本語の言い回しは重言や重言的なものに溢れている。「好き好んで」「びっくり仰天」「数を数える」「歌を歌う」など、枚挙にいとまがない。
 しかしこういった言い回しは無駄な贅肉のように思われいても、リズミカルに聞こえ、聴覚的にいい印象を与える。政治家の演説などを聴いていると、もっともらしいことをもっともらしく話すためには、重言というのは効果的な喋り方になることに気がつく。もともとあまり中身のないタテマエだけのことを借り物の言葉で話しているのだから、そもそも仕方がないのかもしれないが。
 川柳を詠む際に、推敲しながら言葉に無駄がないかのチェックを繰り返す。そしてさらに省いた言い回しで結果的に比喩(換喩・提喩)表現となる場合、詩情が生まれてくることがあり、我ながらはっとする。これは堪らない快感となる。
 人間は分かりやすく饒舌に話したがる、話そうとする傾向を持つのが一般的だろう。詩的な世界はその真逆の世界を狙っている。だから難解に感じることもある。これは散文と韻文のバランスの問題かもしれない。両方があって言語表現は成立している。
 重言は一概には責められない。慣用表現として耳から入る響きの良さは無視できない。「泣く泣く」、「返す返す」、最近流行りの「ほぼほぼ」などの畳語表現も、副詞的な意味合いがあるにせよ耳から入る効果を意識した使い方から始まったのではないか。重言が誤用で畳語はそうではないと安易に決めつけられない、落馬した人間はそう思っているかもしれない。

  ほぼほぼとほぼはほぼほぼほぼ同じ  博史

 

 



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