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自分がやっていた川柳教室でも行ってきて、最近何度かほかの勉強会でも行うようにしていることに課題吟の「全句披講」がある。
課題吟は「競吟」であるから、選者が選んだ作品のみ披講され、呼名され、活字化される。

僕は今53歳だから、初めて競吟句会へ参加させていただいてから30年になる。
披講を聞いて、抜けた作品から課題の処理、修辞、物事への視点を「模倣」という形で学んできた。
それから色々な句会、柳誌、文献を参考にして作句を積み上げてゆくようになるのだけれど、基本はやっぱり「模倣」だった。
理論的に学ぶ場というのはなかった。
そのうち選者をお願いされるようになるのだけれど、これもやっぱり「模倣」から入るわけで、

まぁマナー的なことは先達から教わるのだけれど、理論的なことを学ぶということはここでもなかった。
「競吟」の歴史的経緯を見ると、明治代の新傾向川柳下において先に残してゆく作品を生み出す方法論として定着してきたと、僕は捉えている。

「作法」として定着していた選句手法からの脱却を目指していたと思う。
それは「模倣」からの脱却ともいえる。

だから「抜けた」作品を通して「傾向と対策」的「模倣」をこなすような作句になりがちな「競吟」は本来の「競吟」とは違ってしまっていると感じると同時に、

次代に活字として残す作品を残せる「場」なのかどうかという疑問が出てくる。

 

辛辣な表現を用いれば「川柳的」な作品を揃える場ではあっても「川柳」を生み出し競う場になっていないのではないか?と思うのだ。
そこで「模倣」を排除するにはどうしたらいいか?

と考え、思いついたのが「全句披講」なのだ。

 
大人数の句会では時間的制約があるので、難しいだろうけれど、活字として次に残す、残さないを入選の基準とし、活字として残さないと判断した作品を披講しながら、その理由と鑑賞をしていく。

 

このことで「このような手法、傾向の作品は活字にならない」という判断を参加者に提供することができる。

 

もちんこのことが次の「模倣」につながる可能性は十分にあるのだけれど、鑑賞コメントにおいて「何が伝わり、何が伝わらなかったか」「別の視点もあるのではないか」という次の作句におけるテーマを提供することができるので、単なる「模倣」につながらないのではと考える。
「全句披講」はリアルタイムで「落葉拾い」が行われるのと等しいため、選者は厳しい視線にさらされることになる。

先達の選考の「模倣」として「こういうのを選んでおけばいい」という感覚は通用しない。
しかし、不活字化作品を披講し、そのコメントに対して参加者からの別視点が提供されるとしたら、その時点で不活字化から活字化へ変更することはやぶさかではない。

 

選者が考える「威厳」というものとの葛藤はあるだろうが、そこは選者としての「勇気」を持って対応することが大切だろう。
「全句披講」することによって、参加者も選者も、脳科学でいう「アハ体験」を共有することができ、そこへ作句の方向性を持つことができれば、「模倣」から「創造」へ作品世界は広がってゆくのではないか、と考える。
鑑賞眼が育まれないと、形式上模倣が広がってしまう。

大きな括りでの同義か、言語の置き換えに過ぎない表現なのか、ここは鑑賞力によって左右されるし、この鑑賞力が作句に反映することで、小さな差異からドラマの奥行、広がりを描写することが可能となる。
人口に介する作品は消費物という側面を持つと同時に、作者の身体から発する分身でもある。

作者の身体は時代に生きているのだから、作品は時代の分身でもある。
時代は決して停滞しない。

ということは形式に落とし込む「模倣」は「時代の停滞」を意味する。

 
「抜ける」ということに重きを置きすぎる「模倣」は、すでに時代を詠むことができなくなっているのではないか?

 
没句に対する鑑賞、コメント、何処が解らなかったかを示す選者の勇気、これらが広がって行けばいいなと考えている。



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全句披講”のコメント欄です

  1. 山本 由宇呆 on 2016年7月28日 at 7:58 AM :

    山本由宇呆です。
    ご無沙汰しています。
    今頃になって何ですが、帆波さんの 「全句披講」に感銘を受けました。

    私は定年後に、江畑川柳教室で川柳と出会い、面白さにのめり込みました。
    ちょうど同じような動機で、川柳を志す初心者後輩の話相手になることは
    私のちょっとしたボランティアかもと想い、川柳教室のお手伝いを始めました。
    暫くして、東葛の機関紙「ぬかる道」の「ビギナーズ道場」にアシスタントで参加し、
    10年余り経ちます。
    一方、抜けた抜けないの結果だけ追いかける句会は、魅力が無くなり、
    お付き合いの場だけ と、割り切って考えるようになりました。

    帆波さんの 本稿を詠ませて頂き、ビギナーズ道場は 誌上での全句鑑賞に
    他ならない と、思いました。惜しむらくは、誌面に限りがあるので
    充分に意を尽くせないじれったさが残ります。
    また、時間的制約から、対象人員数を増やせない(少し上達したら、卒業して頂く)
    というジレンマもあります。

    ここまで書いて、これは愚痴かもしれない と思いました。
    いずれにせよ、帆波さんの本稿で、勇気を頂きました。
    由宇呆の感覚が正常だったことが 分かりました。
    有難う御座いました。

    由宇呆   拝 

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