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 井上陽水の「傘がない」は昭和47年に発表された名曲である。今もカラオケで受け継がれている。発表当時は学生運動・学園紛争が少しずつ下火になってきていたが、浅間山荘事件などの凄惨な出来事がいくつも起きた頃でもある。私は高校1年生だった。
 歌詞は、都会では自殺する若者が増えている、だけど今の僕にはそんなことより君にこれから逢いに行く傘がない…、云々と続くものである。よく知らない方はネットで調べてください。
 昭和50年に大学へ入った私が、いつだったか下宿でテレビを観ていたら、社会学を専門とするある大学教授が「この歌は、安保闘争や学生運動などの政治的なことへの盛り上がりが次第に下降していく状況の中にいる若者の心情を的確に言い表している」というようなコメントをテレビで述べていた。社会学という学問がどういうものかもあまり分からなかったが、なるほどうまいことを言うなあと感心したことを記憶している。
 文系の学部で呑気な大学生活を送っていたが、井上陽水のこの歌はすごく共感するものであった。自分の周りの些細なことにばかり気持ちが向いてしまい、なかなか前を見ようとしないかなり屈折しているとも言える心の風景。若い頃は誰でもそういうものを抱えていると思う。しかし他方で何か引っかかるものも私にはあった。
 それが次第に分かって来たのは、大学卒業後社会人になってからである。お金を稼ぐために日々働くということは、恋人に逢うというのに「傘がない」などとほざいて嘆き悲しんでいる暇はないということであり、そもそも傘がないのはすべて怠惰で無計画な生活を送っていた自分の所為なのである。傘がなければ雨が降ろうと槍が降ろうと何でもかんでも逢いに行け、甘ったれていないで次からは気をつけろ、以上ですべては終わりということとなる。
 土居健郎の名著『「甘え」の構造』は、日本人特有の「甘え」の概念について説いたものであるが、その中に日本語独特の受身表現、例えば「雨に降られる」という言い回しについての考察があった。欧米の言語ではこういう受動態の言い回しはない。これは日本人独特の被害者者意識と通底するのではないか、というようなことを言っていた(少し記憶は曖昧だが、大筋では間違っていないと思う)。
 傘がないの歌詞にも、そこらあたりのナイーブさが漂っている。都会における若者の自殺の増加という社会現象と、現在の自分が置かれている傘がないという状況との関係性には、ナイーブな被害者意識による牽強付会とも思えるくらいの思考回路が浮かび上がってくる。
 いい歳をしていつまでも歌い続けるのは、もちろん過去への感傷的な郷愁があるからなのだろうが、「傘がない」という事態そのものは、いずれは誰もが通過して必ず卒業するものを指している。それを言っちゃおしめえよと言われそうであるが、郷愁と現実を使い分けて社会人としての大人の人生は齢を重ねていく、これが平均的な人間の心の姿なのだろう。使い分けが出来ないといつまでも若者レベルの意識で成長が止まったままとなる。偶にそういう人に出遭うことがある。内心羨ましく思ったり、大人になれなかったんだねと話しかけたくなるようなところに惹かれてしまうこともある。
 いつになってもどういう世代でも社会問題や政治的なことに関心を持つ若い時期はある。政治って何なのだろう。奇特にもほんとに政治家になってしまう若者も必ず存在する。そもそも社会に関心を持つということはどういうことなのだろう。
 政治や社会への風刺は、それらに能動的に関われなかった者の挫折感をエネルギーにした負け惜しみなのか。時事川柳はどうなのか? 改めて人間の社会性ということに思いが及んでくる。リモートやソーシャルディスタンスなんてものが当たれ前のものになってきたらどういう世の中になるのか。風刺すらなくなってしまうのか。政治や社会を熱っぽく語ることすら野暮になってしまうのか。



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