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 ダーウィンの唱えた進化論は恐ろしくラディカルな思想でもある。これの正しさが広まればキリスト教の考え方は根本的に覆ってしまう。そんなことを学生時代に科学史の本で読んだ。
 すべての生き物は自然淘汰によって進化してきた、神様が関与するところは全くなかったというのだから、神による天地創造を素直に信じている敬虔なクリスチャンにとって受け入れ難いことなのは当然のことだろう。進化論を信じたら無神論者になるほかはない。
 進化論的な思考を推し進めていくと、動物の行動はすべて種の保存のためにそうさせてあるのであって、例えば、哺乳類や鳥類の子育てなども、人間と同じような愛情(母性愛)があるからそうなっている訳ではないこととなる。単なる本能行動、それも種の保存のためにとてつもなく長い期間の自然淘汰を経てパターン化されたものだけが事実として存在することとなる。これは、今後革命的な科学理論によるパラダイム転換がなされて根本的に否定されない限り、キリスト教信仰と永遠に両立しない過激な(危険な?)考え方として生き続ける。
 ついでに言うと、人間の本能行動は人間的に壊れているのであって、例えば暴飲暴食、異常性欲、不眠症などの程度を超えた行動が動物にはない人間特有のものだということも、学生時代に学んだ。裏を返せば、本能に基づく人間の欲求に動物的な節度(行動形式)があれば、動物並みの身体とそれに合わせた心の健康が保たれるということでもある。
 ところでキリスト教とは関係なく人間は、人間的なものの考え方として動物の個々の行動や生態に対して人間的な感情を移入したり、人間社会の姿をその集団に投影したくなる。動物は本能だけで生きているのに、人間と同じように動物にも情愛や悲しみがあり、人間社会と同じように揉め事や諍いがあると解釈したがる。交尾は性交、番(つがい)は夫婦であり、人間と同じような感情(喜怒哀楽や共感)や記憶が恰も動物にもあるかのように考えたがる。進化論がもっと精緻に発展していっても、この思考の習性はなかなか直らないことだろう。
 さて、これを文芸の一つである川柳の立場で考えてみる。「鶏の何か言いたい足づかい」を代表として、動植物の題材を擬人化して詠んだ写生句が江戸の古川柳の頃からたくさんある。現代の川柳も進化論の真実とは全く相容れない擬人化した句を詠みたがる。進化論の世界が完璧に思えるのに、どうして川柳は敢えて文芸的に感情移入して動植物を擬人化するのだろうか。
 進化論だけを信じてあらゆる生物を観察していたら、余程の冷徹な人間でない限り息が詰まりそうになる。短詩型文芸の中でも一番人間くささが漂う川柳だからこそ、感情移入や擬人化がうまく出来るのではないか。これは俳句や短歌より川柳が得意とする分野である。
 理屈には感情がある。理屈だけの世界はない。感情だけの世界も勿論存在しない。宇宙物理学者が俳句を詠んだり、有機化学者がロマンチストであったりすることはよくある話で、動植物を写生した川柳も進化論的な思考に対する大切な息抜きとして、精神のバランスをとるために必要なものなのかもしれない。



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