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 7月7日のブログ「事務という技芸『事務道』について」の中で、判子のために判子はある云々と書いたが、菅政権に代わって、河野行政改革相による押印廃止の話題が日々メディアを賑わせている。誠に結構なお話しである。
 お役所は判子を押す意味について少しも疑念を持たない。書類を作成して何の疑いも持たず素直に押印作業を進める。そして、それを一般市民にも押し付ける。
 リンカーン的に言えば、「判子の判子による判子のための判子」だったのだから、判子の存在は理屈を超えたものだったのである。しかしこの神話が少しずつ崩れ始めた。役所の仕事が減ってしまう。素直におもしろい。
 申請書類なども「書類の書類による書類のための書類」が結構ある。これも理屈を超えているのである。書類は一つ一つの理屈の連鎖の中で活かされているように思えるが、だからと言って、その連鎖の一つや二つに穴があったり、齟齬が生じたりしたとしても、全体を眺めれば大したことはない。致命的な綻びが出来てしまう訳ではない。しかし役所の理屈の完全性という辻褄合わせを求める。
 世の中はお役所の論理で動いている。論理の大本は法令なのだろうが、その法令が完璧に体系化されている訳でもないだろう。だからいろいろな問題が起きて裁判沙汰になる訳である。
 世の中の屁理屈や絡繰りを知り尽くせば、それなりにスマートな社会生活を送れるのだろうが、もう還暦を過ぎた私などにとっては、そんなゲーム感覚的なことはまともに相手にしたくないものに思えているのである。



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