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 「無知の知」という言葉がある。ソクラテスの哲学を学ぶと必ず出てくる考え方である。
 「知らないということを知る」大切さを説いたものである。大辞林(第三版・三省堂)には「真の知に至る出発点は無知を自覚することにある、とするソクラテスの考え方」と記されている。詳しいことはうまく説明できないが、インターネットで調べれば、この考え方の背景を含めたことが理解できるだろう。私は、この考え方を持っているといろいろなところに応用出来て、物事を認識して是非を判断すること、さらに偏見を持たないようにする事に役立つと思っている。
 人間が生まれて成長する過程は、物事を知ることと同時並行である。知る、あるいは認識することで日々が過ぎて行くと言ってもおかしくはない。大学で難しいことを勉強することも、通りを歩いていて新しいお惣菜のお店を見つけることも、どれも知ることである。違いはない。
 ある程度の年齢に達すると、知る力はピークに達し、忘れる方が強くなってくる。しかし知ろうとする力は残っている。それは細々とでも死ぬまで続く。知ること、知ろうとすることを完全に止めてしまったら、死ぬことと同じになる。
 それだけ知ることは偉大なのだが、無知であることを自覚することも同時に重要なのではないか。この視点を忘れてはいけないといつも私は思っている。
 今回のコロナ騒ぎで、専門家の知見や有識者の意見がいろいろ報道され、コロナの正体、治療療法と予防対策、その付き合い方が分かってきたが、その情報は日々更新されている。以前に正しいと信じていたことが間違いだったと言われてびっくりしたりするが、コロナに対する情報の正しさは常に相対的であると覚悟を決めて認識すればいいのにそれがなかなかできない。すぐに検査方法や特効薬、オリンピックの開催、経済の回復について、日本国民は正確で最終的な認識(予想・予測・推定)を持ちたがる。政治家にそれを強く期待する。それが上手くいかないからストレスが溜まる。政治家だって無理なことを求められて焦りまくる。しかしうまく答えられないと評価が下がって次回の選挙に響く。これもストレスとなる。だからいい加減なことも信念を持って言ってしまう。
 当たり前のことだが、分からないものを分からないと認識する勇気も必要なのである。いつかは分かるだろうという構えた認識も大切なのである。そうするとストレスも解消される面がある。「無知の知」には仏教的な観念の世界が混じっていると思う。



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