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 天気予報も今では精度が上がって、10日から2週間ぐらいの長さの予報を日々メディアから提供してくれる。これが頼りになるかと言うと、なかなかそうは思えない。日を追って、予報内容が修正(変遷と言った方が適切か)されていく。そして翌日、翌日近くになるとほぼ間違いないお天気情報になっている。
 つまり、直近2、3日分の予報は毎日の生活に影響する大切な情報提供であるが、1、2週間のタイムスパンのものだと、参考程度のお天気案内になる。先のことでひどく心配してもあまり意味がないというレベルになる。
 平成30年の夏は猛暑だった。私の住む関東地方では、6月初旬に梅雨入りとなり、6月下旬には何ということか、それがあっさり明けてしまった。当時のことを今でもよく憶えている。
 いつもより少し早めに梅雨に入ったと、その時は思った。しかしそれから何故か晴れの日がずっと続いた。どうせじめじめした長雨がぶり返すだろうと覚悟していたら、何故か一向に雨は降らない。梅雨明けは6月下旬にもう発表されたようであるが、そもそも満足に雨は降らなかったので、そのニュースには安堵感などはなく変な印象を持ったものだった。そして8月下旬まで連日の猛暑が続いた。
 その頃の天気予報はこうだった。連日猛暑が続いているが来週あたりから少し涼しくなる。そんな台詞をお天気キャスターからテレビで何度も聞かされた。しかしそうはならなかった。クーラーのない我が家は扇風機が唯一の頼り。日々の天気予報、とりわけ日中の最高気温についてはいつも敏感になっている。35℃を超えた猛暑日になるかどうかで一日の過ごし方、夜の寝苦しさの度合いがかなり違う。正直に申し上げて、その頃の天気予報は嘘つきだと思った。
 現代の天気予報は気象衛星から膨大なデータを集め、大型コンピューターを駆使して分析するのだろう。ビジュアルな動きには説得力がある。エルニーニョなどの世界的な現象も大きな判断材料になる。しかし長期予報などで外れることがよくある。たまにお天気キャスターのお詫びの弁を聞くこともあるが、予報する側が懲りることはない(それが仕事なのだから当たり前のことか)。そして予報される側の人間も相変わらず一応は頼りにする。情報化社会においては、天気予報は市民生活のみならず資本主義経済にも直結する大切なものなのである。
 ここで敢えて資本主義という言葉を持ち出したのは、狩猟採集や農耕が中心だった太古の時代では、天気に対して観念する態度があったと考えるからである。欲望が渦巻く資本主義社会にあっては、観念することは敗北である。それを素直に認めることはできない。欲望を満たすためにどこまでも果てしなく情報を追い求める。そして天気によるリスクを回避しようとする。天候デリバティブなどという金融派生商品もある。
 天気予報で東京23区ごとの予報情報が刻々と更新されているが、この細分化にどれほどの意味があるというのか。資本主義経済の社会では、与えられた情報は取り敢えずでも受け取らざるを得ないものなのだろう。そして不要と判断したら速やかに削除されればいいだけのことなのである。



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