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 大学を卒業して何とか就職出来たのだが、最初の3年間は窓口の受付業務みたいなことをしていた。その後本格的なデスクワーク、事務仕事をする部署に異動になった。
 日々の業務は予算を執行して帳簿をつけ、対外的な業務としてよく公文書を作成して郵送していた。
 まず上司から公文書とはどういうものかを教え込まれ、実際に和文タイプライターを使って作成することになった。依頼文、照会文などの種々のフォーマットがあって、前例をもとに文章を練り上げるのだが、書き始めの文として「時下、益々御清祥のこととお慶び申し上げます」という便利な言い回しを覚えた。「時下」も「御清祥」も社会人になって初めて知った言葉だったが、その後30年以上の事務員生活で、おそらく何百回とこの言葉、このフレーズを使った。それは何故か。
 文書の導入部分となる時候の挨拶は、季節によっていろいろな言葉があるので面倒くさい。一々挨拶文の用例マニュアルを引っ張り出し、今の季節に相応しい言葉を選び出すのは作業効率上よくない。「時下」を使えば、夏でも冬でもオールシーズン使用可能である。これは便利だとすぐに飛びついた。なお「御清祥」と「お慶び」で、漢字の「御」と平仮名の「お」を使い分けているが、前者は相手のこと、後者は自分のことなので、そのように区別して表記するのが正しいということが文書作成の何かのガイドブックに書かれてあった。なるほどと思わず納得して、以後そのように使い分けを続けていたが、そんなトリビアなことに拘っていたのは職場の中で私ぐらいだったようである。
 そしてこの紋切り型の書き出しに続く文は、大体が「日頃より格別の御高配を賜り深く感謝申し上げます。」という、これまた紋切り型の言い回しを使っていた。これも散々タイプで打ったことだろう(もっとも数年してワープロの時代になったが)。
 ところで、私はこれらの言い回しをいつも使っていて、実は納得できない思いをいつも抱えていたのである。会ったこともないような人、組織に対して「御清祥とお慶び申し上げる」こと、そして本当にそうなのかどうか実態が分からないのに「格別の御高配を賜り深く感謝」することは極めて怪しい、噓くさい態度だと思っていたのである。これが世の中の人と人の、組織と組織の間の作法なのだと言われればそのとおり、お前は理屈っぽいやつだと言われればこれまた仰せのとおりになってしまうのだが。
 どうも私の性分として、言葉だけの中身のない会話というのが嫌いなようなのである。上っ面な言葉のやり取りで物事が曖昧に運ばれることが、どうも子供の頃から嫌いだったことは確かである。会ったこともない人にいきなり「いつもお世話になっています」、二度と会うこともなさそうな知り合いに対して「またお会いしましょう」、よく女性同士の会話に出くる、ほとんど実現性のない「今度食事にでも行きましょう」などなど、こういった言い方が好きではない。だから私が「今度飲みに誘うから」と相手に言ったら、私は多分必ずその人を飲みに誘うことだろう。社交辞令が言えないタイプ、ホンネをすぐ吐き出したがる融通性のない人間なのだと思う。
 変な話しだが、公文書の作法の世界と私の考え方・価値観には相当のズレがあったのである。にもかかわらず私は仕事として給料をもらうために、30数年間自分とはズレた言葉を日々枕詞のように公文書のイントロに落とし込んでいたのだ。私の信念から言えば、嘘つき、偽善者だったのかもしれない(笑)。



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時下、益々御清祥のこととお慶び申し上げます。”にコメントをどうぞ

  1. 橋倉久美子 on 2021年5月6日 at 9:57 AM :

    あはは、なつかしい! 和文タイプ! 書き始めの紋切り型の挨拶文!
    商業科だった高校時代、活字が向こう向きになった和文タイプで、「拝啓 御社ますますご健勝のこととお喜び申し上げます」などと、何度打ったことか。
    「御社ますます」なんて、けっこうなスピードで打てましたよ。
    タイプを打つ力加減も大事なんですよね。
    「御」のように画数の多い字は力を入れて、画数の少ない字は軽く打たないと、色がムラになる。
    それどころか、「の」のように丸く囲まれる部分があるとすかっと抜けてしまうことがあって、カーボン紙にも穴が開いてしまう。
    まあ、検定試験は時間内に何文字打てるかで合否が決まるので、とにかく時間との戦いでしたが。

    • 三上 博史 on 2021年5月10日 at 8:47 AM :

      久美子さん、ありがとうございます。
      私の和文タイプのスピードはお恥ずかしい限りでした。でも、電動だったかな。
      ワープロが登場して普及してくると、和文タイプライターの製造会社が倒産してしまったのを憶えています。カメラのフィルムやレコード針の生産と同じ運命を辿った訳です。

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