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 サイコパスなどは別にして完全な悪人は存在しない、という話を何かの文章で読んだことがある。凶悪な犯罪を重ねた人間でも、心の隅には仏の心がほんの少しぐらいはある。これが自然な姿である。この逆も言える。マリア様、観音様のような慈愛の塊のようなお方でも、偶にはお臍の位置が悪い時がある。これも一つも不思議ではない。
 しかし人間というものは、憧れや願望があってなかなか完全性への思い入れを捨てきれない。どうしても偶像を崇拝したり、理想像を描いたりしたくなる。そしてそれに自分を引き寄せ、それに近づこうと努力したりする。結果的には自己の向上にはつながるのだろうが、理想と思い込んでいた人の負の側面を偶然にも垣間見たりするとものすごく落胆する。現実とはみんなそのようなものだとようやく悟る訳であるが、まだ悟り切れていないものも持っている。あまりに現実的にものを受け入れるのも夢がないからである。
 〇か×か、善か悪か。安易に決めつけないようにする。これにはそれなりの効用がある。性善説、性悪説などという考え方を信じなくなれば、他人の意外な側面を覗くような事実に出くわしても、いかにも人間らしい行為とスムーズに納得できるからである。
 善人にも時には魔がさすことがある。しかし死後は次第に美化され、悪い評価は見事に捨象されていく。そして美しい伝説となる。美談もいいが、もう一つの負の側面を見た時の人間らしさに親しみすら感じて、そこから川柳が詠めたりすることもあるだろう。
 世間の単純で平板な価値観・尺度は、川柳を詠む上ではあまり役立たない。穿った句を詠むには、自分なりの確かな考えと視点を持って、世間で起きるあらゆることに対して常に納得して受け入れる姿勢が必要だと思う。たとえそれが少数派と呼ばれようと、天邪鬼と呼ばれようと、である。



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