いわゆる学校の事務員を長くやっていたが、通常の業務の他に、看護師(かつては看護婦と呼ばれていたが)などの養成に関することで三つほどの新規事業の経験をさせてもらった。
一つは助産婦(現在の助産師)養成課程の設置に関することである。40数年前の昭和50年代半ばまで、栃木県内にはこれを養成する学校(いわゆる助産婦学校)がどこにも設置されていなかった。栃木県からの全額補助を受けて、当時私が配属されていた看護婦養成のための専門学校に助産婦の学科を新たに併設することになったのである。助産婦になるためには看護婦免許を有し、1年間の教育課程を経て国家試験に合格しなければならない。当時の私は20代前半で、何も分からないまま設置認可申請に係る事務に携わったのである。栃木県庁や当時の厚生省へ出張した記憶が残っている。看護婦と助産婦の違いもよく分からなかった。病院の産科病棟には、看護婦だけでなく専門性を持った助産婦を配置することが望ましいということだけは少しずつ理解するようになった。
それから数年も経たずに、その専門学校を看護短期大学へ移行する計画が持ち上がった。質の高い看護婦を養成するには専門学校レベルを超えたカリキュラムで学ばせる必要があるという理由だった。全国的に見れば短大に看護学科を設けているところは少しずつ増えてきていた。さらに4年制の看護大学、看護学部を設置するところもいくつかあった。しかし、専門学校からいきなり4年制大学に昇格させるにはいささかハードルが高い。まずは短大化してからという方針だった。その準備作業に2年間携わった。当時の文部省の担当窓口には何度も足を運び、認可申請関係の書類を作成するための指導を受けた。昭和60年代の始めの頃である。毎回の出張の帰りには新橋駅前の飲み屋に立ち寄ったものだった。
無事に看護短期大学として認可を受けて10年ぐらいが経過した。すると今度は4年制大学へ移行する計画が学内で本格的に検討されるようになってきた。平成に入って、国立大学医学部に医療職養成の学科が少しずつ設置され始め、公立の看護大学も各地に誕生していた。風向きとして、看護師(この頃に看護婦の名称が変更となった)を含めた医療職を養成するには学士レベルの資質が必要という考え方が主流になり、勤務していた短大の教員たちも新たに設置される4大の学部学科へ流出するようになったのである。当時、ある教員が「看護教員の求人は売り手市場のバブル期に突入している」と言っていたことを記憶している。4大設立ラッシュで日本全体の看護系教員の需給が逼迫していたのである。
平成10年代の初め、実際に看護学部の設置準備作業に携わると、とにかく教員のなり手がいない。いろいろな伝手(つて)を頼ってのヘッドハンティングが始まった。まず教授クラスの適材を探してそれから助教授(現在の准教授)以下のスタッフを固めていく。40歳そこそこの若い教授(ほとんど女性)が何人も集まってくれた。そして、人材の確保だけでなくいろいろな課題を解決して、なんとか看護学部の設置が認可された。開設後の私は、教務事務や学生募集(入試)などの通常業務に携わった。
看護系教員の求人バブルはずっと長く続いた。国公立大学の看護学部や看護学科の設立ラッシュが落ち着くと、今度は私立大学が同じように学部・学科を設置し始めたからである。少子化で18歳人口が減少し、地方の私立大学の入学定員割れが深刻化してきた。高邁な教育理念や目標はともかく、看護系の学部・学科ならば志願者・入学者を手堅く確保できるだろうという経営的な目論見が本音としてあったからだと言えるだろう。こうなると、猫も杓子も看護師は大卒という風潮になってくる。
それでは現在の状況はどうなのか。大卒ばかりの看護師かと言えばそうとも限らない。専門学校の養成課程は今でも新たに設置されている。看護師を大量に養成しても、大量に離職しているという実態がある。この状況は、大卒看護師でも専門学校卒看護師でも変わらない。看護の仕事はやりがいがある反面、その反動のストレスも多々ある。だから給与などの待遇をいくら改善しても退職者は一向に減らない。私のような一介の事務員だった人間でも、看護を職業とすることはいかに大変なものであるかはそれなりに承知している。
実際に患者となって入院した経験を踏まえると、好感が持てる、有能だと感じる看護師は大卒であろうとそうでなかろうとあまり関係がないという印象が強い。職務を遂行する上での資格というものは、必要最低限のものであり、そこからどのように自分を磨いていくか、これがすべてのような気がする。もっとも、これは医療職のすべてにあてはまることなのだろうが…。
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