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 日本は自動詞を主体とした文化だと思う。例えば、子供を「生む」(他動詞・do動詞)とはあまり言わない。子供は「生まれる」(自動詞・be動詞)ものだからである。女性が妊娠して子供を生むという他動詞的動作・行為を、子供が(神様から)授かった、生まれたという事態・推移で自動詞的に変換する。これは日本特有の考え方なのかもしれない。
 以上、もっともらしく説明してきたが、和辻哲郎の「風土」にそのようなことが書かれていた記憶があって、私の話しは単なる受け売りである。
 私は医科大学の事務職員として長く勤めていたが、ある時、産婦人科のある教授と話す機会があり、この自動詞的表現が話題になった。その教授はその表現を極度に嫌っていたのである。「病気が治る」はおかしい。診断と治療、さらに当人の治そうとする気持ちによって、病気に罹ったら「病気は治す」のである。私はカルテに自動詞的な言い回しは書かない。そのようなことを私に自信を持って話していた。私は一介の事務員なので畏れ多くもその教授に対して、和辻哲郎の考え方を持ち出してその場で反論しようとは思わなかった。とりあえず有り難くご高説を賜るだけだった。
 臨床の現場にいる医師は患者の病気を治して社会に貢献している自負があるだろう。まさに他動詞的な世界にいつも生きている。しかし、それにも限度がある。治らない病気で患者が亡くなると他動詞の限界に直面する。
 そういうことを何度も経験してくると、人によっては自動詞的世界へ転向するのではないか。亡くなるというのは自動詞の典型である。宗教的価値観、特に仏教思想は極めて自動詞的である。
 西洋の自然科学は、自然と対峙し自然を征服しようとして発達してきた。まさに他動詞的世界観である。西洋庭園の幾何学的なデザインにはその考え方が如実に反映されている。借景などを使って自然に溶け込もうとする日本庭園とは極めて対照的である。庭園にも他動詞と自動詞の考え方があることに気がつく。
 人間の一生も他動詞的に生きてきながら、最後は自動詞的な観念の世界へ移行するのではないか。他動詞的人間として死ぬまで頑張って生きていても、誰でも死ぬ時は自動詞的な世界へ入って死を観念せざるを得ない。科学者が最終的には宗教の世界へ向かうのも納得できる話しである。人は誰でも観念して死ぬのである。
 ビートルズの名曲「Let it be」も、決して死への観念を暗示したものではないが、他動詞的な世界から自動詞的な世界への転換を示唆したものではないかと、これを書き進めながらふと思った。



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自動詞と他動詞の世界”にコメントをどうぞ

  1. 江畑 哲男 on 2021年7月31日 at 7:51 AM :

    「知性と教養」を感じますねぇ(笑)。
    仰るとおりです。さすがです。
    日本的な価値観・世界観には、もともと「自然との共存」があったようです。そうした思想が言語に如実に顕れているのだと思います。
    文明を「リード」してきたヨーロッパ人にはソレが分からなかった。環境問題が起こってきて、初めて気がついた、ということなのでしょう。
    (お邪魔しました。)

    • 三上 博史 on 2021年8月2日 at 9:37 AM :

      哲男さん、コメントありがとうございます。何年も前から考えていたことを書いてみました。
      拙著「添削から学ぶ川柳上達法」でもこのことには言及していますが、一部の読者からは難しい、なんて言われてしまいまして、少し残念に思っています。自動詞と他動詞をうまく使いこなせれば、確実に川柳は上達します。これは間違いありません。

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