2月3日に「『有り難くもない有り難う』(朝明第13号から)」を載せた。「朝明」は栃木県文芸家協会が発行(320部)する総合文芸誌であるが、会員からこれといった感想もなく、このブログに転載してもそれほどの反応はなかった。別に反響があることを期待して訳ではないが、内心ではうまく書けたのではないかと、それなりの満足感はあった。しかし文字数の制限もあり、改めて読み直してみると、言い足りなかったことに気がついた。それを書き記してみたい。
「ありがとう」の対義語は「あたりまえ」であることを踏まえていろいろと論じたつもりだったが、自分の人生を顧みると、私の両親は家の中の会話で、ありがとうとはあまり言わなかった。特に無骨なところがある父親から聞いたことは滅多にない。そういう家庭環境で育ったから、私もありがとうとは家族の前ではあまり言わない。家族に言わないのなら他人にも言わない。そんな暮らし方だったことに思い至った。なお、父親の無骨さは倅である私にもしっかり受け継がれている。
我が家のコミュニケ―ションがそういう意味で特殊なのかと考え直してみると、昭和一桁世代の親とその親の元で生まれ育った子たちの家庭は、大体がどこでもそんな感じのものだったのではないかと気がついた。これは同世代の友人たちにきちんと確認した訳ではないが、多分それほど外れていない推量だと思う(もちろん礼儀正しい雰囲気の家庭もたくさんあっただろうが)。
両親が老いてきて、親と子の立場が逆転するようになると、例えば親が介護されるような状況になった時、ありがとうだけでなく「すまない」などの言葉も親の口から自然と発せられるようになった記憶がある。気弱になった親だけでなく子である私の方も、これに影響された訳ではないだろうが、しばしばありがとうと言うようになった。親も子も齢を重ねていつの間にか心が丸くなってきた所為もあるだろう。
若い頃に、何故ありがとうと言わなかったのか。そしてそれでも親と子の関係が成り立っていたのか改めて考えてみると、家庭の中のこと、家族間のやりとりはほとんど「あたりまえ」であるという暗黙の規範みたいなもの、あるいはそれに準じた考え方がコミュニケーションの底流にあったからではないか。家庭における夫婦間、親子間のやりとりは、すべてあたりまえの価値観に基づいてなされていた。もちろん齟齬や喧嘩など厄介な事態もしばしば起きる。しかし生活の中ではほとんどがあたりまえのように過ぎていく。だから、ありがとうなどと敢えて言う気がしない。そんな言葉を期待もしていない。昭和時代(それ以前もそうかもしれないが)の家庭の中にはそういった雰囲気がいつもあったと思う。
ところが、家庭から一歩外に出て社会の空気にふれると、誰かとコミュニケーションするには何につけ礼儀と挨拶が必要になってくる。大人へと成長するにつれ、そのことを少しずつ学び始める。礼儀として感謝を表明する場合はもちろんのこと、挨拶としてもとりあえずありがとうと述べなければならない。
昨年12月6日のブログ「よろしくお願いします。」 や2021年5月6日のブログ「時下、益々御清祥のこととお慶び申し上げます。」において、挨拶や社交辞令(儀礼的な言葉)について論じたが、これらの類いのカテゴリーは大人の世界のコミュケーションツールである。子供同士の世界は素直な心で成り立っているので、余計な言葉は不要となる。ストレートなもの言いだけでいい。感謝や謝罪でもその意を発するのは根底に正直さがあるからそのように振る舞うのである。大人の場合はその辺りがかなり曖昧である。
一例を挙げると、テレビのニュース番組などで、キャスターがゲスト出演者に対して「(コメントをいただき)どうもありがとうございました」などと述べる場面がある。話題を締めくくる時によく聞く台詞だが、ゲストも何か発しないとまずいと思うのか、これまた同じく「どうもありがとうございました」と応える。
そういうやりとりの画面を観ながら、双方の感謝の意味を視聴者としてどのように感じ取ればいいのか。コメントをいただいてありがとうございます。これはコメントを頼んだビジネス上のことであるが、一応誰でも理解できるだろう。その返しに全く同じ台詞を吐くゲストがかなりいることは、直球勝負の子供の頭の中ではなかなか納得できないことなのではないか。依頼を承諾して筋書きどおりにコメントを発したのだから、あたりまえと言えばそのとおりなのである。しかし何かを言わないと雰囲気的にまずく感じられることもあるので、オウム返しで応えることにしたのだろう。これがマナーのようになってきた。そんな心理分析をしたくなる。
「ありがどうございました→どういたしまして」「ごちそうさまでした→おそまつさまでした」こういうやりとりなら子供でも理解できて学ぶことができるだろう。挨拶的でも儀礼的でも、いくらか実のある会話になっている。しかし「ありがとうございました」に対して「ありがとうございました」と返すことを子供に憶えさせるには少し苦労がいるかもれない。下手すれば、大人の会話は調子のいいものだと思われかねない(実際にそういう場面を見て子供は育っていく)。
世の中がいろいろな変化を見せて望ましい方向に向かっている。日本経済の成り行きは別として、社会生活が着実によくなっていることは事実である。政治家やお役人のお蔭かもしれない。それは言葉遣い(難しく言えば言語生活)でも然りである。具体的なことは一々挙げないが、少なくとも差別的なあるいは迷惑な言葉は制度的に排除される傾向にある。結構な話しである。
そういう語彙や表現が減ってきた一方で、丁寧な言い回しが増えてきた。そういったものには挨拶程度のものや社交辞令レベルのものがかなり多く含まれている。それらを会話の中でまず口にしたり、メールの書き出しに使ったりしなければならなくなった。礼儀の項目としてこれらが含まれるようになった世の中というのも結構窮屈なもので、ややこしいと感じることが多いくなる。上辺だけの言葉のやりとりが更に深まっていけば、らっきょうの皮を剝くような中身のないコミュニケーションになってしまいかねない。
メディアを覗くと、政治家、評論家、タレント、スポーツ選手などの著名人が空虚な話しぶりを乱発している言語文化、言語社会になってきている。そういう「らっきょうの皮むきコミュニケーション」が、残念ながらあたりまえになってきている。真面目に耳を傾けてあまり意味がないことに気づく。聞くだけ損した意見を聞かされる。情に訴えるだけの声高な選挙演説がどれほど空虚なものであるか。
先月28日にホワイトハウスで行われた会談で、トランプがゼレンスキーに対して「ありがとうと言え!」と発した。怒鳴り合いとなった中で、どちらの言い分が正しいのか、などと野暮なことは詮索しない。しかし二人のやりとりの中でこの「ありがとう」の言葉は世界をしっかり駆け巡った気がする。
以上で私の話しは終わるが、これもあまり反響は期待していない。へそ曲がりな私には自己満足だけで充分なのである。
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