いろいろな場所が太陽光パネルだらけになってきている。空き地やビルの屋上・民家の屋根のみならず、日が当たる空間が遊んでいるならどこでもパネルを置いてしまおうという資本主義の合理性を追求した考え方である。地球にやさしい方法というのは、とりあえず見栄えぐらいは我慢しなければいけないようだ。
日本には「お天道様」という独特の思想がある。「お天道様が見ている」「お天道様に顔向けできない」などという言い方は、太陽を敬い親しむ考え方の現れである。日照りが続けば憎き存在にも思えてくるが、やはりお天道様のお蔭で農耕は営まれてきた訳である。
熱帯や砂漠の国では、太陽は悪魔的な存在として位置づけられている場合があるらしい。日本でも干天の慈雨などと言うが、こういった国々では太陽より雨が崇められる。所変われば、価値観・世界観は全く逆転することとなる。
私の母は、季節を問わず天気がいいと必ず布団を干したがった。私は面倒くさがり屋なので、母から言われるまでは布団干しの作業は絶対手伝わなかった。言いつけられると渋々家族の布団をそれぞれ物干しざおに下げて並べていた。
年末が近づくと、かつては父と母で毎年切り干し大根を作っていた。うまく出来上がるためには、厳冬の快晴の日が数日続かないと美味しい切り干しにはならない。切って下した大根を広げて、天日干しを繰り返す。夜風にも晒す。日毎に細切りの大根が干乾びて、おもしろいように縮んでいく。何本も切り下した大根が、両手で持てるほどの量に減っていく。これをビニール袋に入れて保存し、半年ぐらいかけて少しずつ食べていく。我が家では朝食の味噌汁の具によく使われていた。いつも具だくさんだった。
お天道様とわざわざ「様」を付けて呼ぶ言い回しは日本独特のものかもしれない。いつも太陽に向き合っているパネルに対して、その角度の素直さ、健気さから「様」を付けて呼ぼうとする気にはどうしてもなれない。やはり資本主義経済の中でのソーラーパワーは風力や水力と同じく所詮産業社会の代物、それだけの存在なのである。
このお天道様と太陽の恵みのギャップもいずれ消えていくのだろうか。いや「お天道様」も死語になっていくのだろうか。若い時分、昼間から酒を飲むことに少し抵抗があった。気恥ずかしさがあった。周りの人間がまだ汗をかいて働いているというのに、お天道様がまだ空に出ている下で赤ら顔になって酔いを楽しむことには躊躇いがあった。真っ昼間に河原でバーベキューをしてワイワイする時などによく感じたものだった。
しかしこれも慣れると平気になってくる。日々近くの川堤を散歩したり、サイクリングしたりしているが、今では休日の昼間のバーべーキューはよく目にする光景である。酒を飲んでいる者もいるだろう。
今の若者には「お天道様の思想」は既に廃れたものなのだろうか。コンビニが普及し、その灯りはシンボルとして夜中のお天道様みたいな存在になっている。まさに1日24時間、社会は眠らない。太陽の有り難みなんて、パネルによる太陽光の有効活用を除けば今更道徳的に何も感じなくてもそれで済むと考えられているのだろう。
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