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 私の家では、毎日食べる米は米屋で買うのではなく親戚からずっと玄米1年分を買っていて、それを精米しながら炊いていた。
 きっかけは私が小6の昭和43年の時である。庭先に車庫を建てることになった。その工事で出入りしていた作業員の一人が兼業農家で母親の遠い親戚にあたることが判り、玄米を売ってくれることになったのである。その人の名前は個人情報なので仮名の「青木一郎」さんとしよう。
 以来、毎年新米が収穫される秋になると、多い時(私が食べ盛りの若い頃)には10袋(5俵)以上を買い入れ、父親が青木一郎さん宅の軽トラを借りて我が家の物置(石倉)に運び入れていた。青木一郎さんは、数キロ離れたAという農家が多い集落に住んでいた。だから比較的近距離で運搬には大した手間もかからず長い付き合いになっていたのである。ずっと続いて50年を超えている。12年前に父が亡くなってからは私が買い入れて軽トラの運び屋をやっていた。しかし母も今年亡くなり、もう青木一郎さんから買っていない。おそらくこれからはスーパーで精米されたお米を買い求めることになるだろう。
 さて、3年前の令和元年の秋に中学のクラス会(3年5組)が何十年ぶりかで開かれた。宇都宮のおでん屋に20名近くが集まった。みんなが懐かしんで盛り上がった後の2次会は居酒屋へ移動した。たまたま隣席に着いた女子の「青木良子」さん(これも仮名)がAという集落に住んでいたことを知っていたので、「俺んちは昔から青木一郎さんという農家から毎年米を買っているんだ。同じ名字だからその家を知っているのでは? 近所じゃないの?」と何気なく話しかけてみたら、それは私の家(本宅)の分家だと言うのである。これで私と青木良子さんが遠い遠い親戚関係であることが判った。お互いエッとなり、大変びっくりした。それから二人で青木一郎さんの家のことなどで話しが弾んだ。
 クラス会からしばらくして、私はあることを急に思い出した。まだ20歳になる前の頃、成人になるというので母が和服のアンサンブルを勝手に注文してしまったのである。初詣などに草履を履いて出掛けていく際の着物である。私はそんな物は着たくないのに、母が和裁をやっている青木さんという女性にいつの間にか頼んでいたのだった。青木さんはAに住んでいた。
 大学2年生で私も若かった。私なりにいろいろな悩み事や葛藤を抱え込んでいた。家族に対して精神的に尖がっていた時期だった。三つ揃いのスーツを誂えてもらって成人式に参加する気など毛頭なかった。長髪で毎日ベルボトムのジーパンを穿いていた私にはそんなスーツは要らない。ましてや和服のアンサンブルなどには全く興味がなかった。
 東京の下宿からたまたま帰っていた年の暮れに、青木さんがようやく出来上がったアンサンブルを届けに来てくれた。生地は黒っぽいものだった。要らないと強く拒否した着物が届いて私は不愉快になり、母と青木さんが座っていた茶の間の面前で「こういう物は着ない!」と吐き捨てるように言ってしまったのである。こんな失礼な話しはない。青木さんに対してだけでなく、面子を潰された母に対してもである。後でこれはやはり言い過ぎだ、とんでもないことをしまったと物凄く後悔した。その場を何とか取りなした母は私の悪態にさほど怒っていないようでもあった。私の意向を確認せず注文したのだから仕方がないと感じていたのだろうか。その時は着ないと言い張っても、時が経てば息子の考えも変わるだろうと思っていたのかもしれない。
 それ以来、アンサンブルはどこかの簞笥に眠ったままだった。折角手縫いでわざわざ拵えてくれたというのに全く目にしていない。ずっと着る機会もないし着ようとする気も起こらなかった。しかし、あの時の悪態は忘れることが出来ない。いくら何でもひどすぎる。私が悪態をついた時の青木さんの淋し気な顔も朧げながら今も記憶に残っている。母と同じくらいの年齢だった。ようやく出来上がってにこやかな表情で持って来てくれただろうに、一気にその場の雰囲気を壊してしまった。こんな愚か者、大馬鹿者は世界でどこにもいないだろう。全く持って苦い経験、惨めで嫌な思い出である。だから、青木さんという名字もAという地名もずっと忘れずにいたのだ。
 50年近く経過して、クラス会で青木良子さんと会話してから私ははっと気がついたのである。あの黒っぽいアンサンブルを作ってくれた青木さんは青木良子さんのお母さんなのではないか。同じ名字で同じ集落のAに住んでいる。私の母は、いつも玄米を買っている遠い親戚の青木一郎さんを通じて、本宅の青木さんが和裁をやっていることを知りアンサンブルを注文したのではないかと推理した。その可能性は大いにある。多分そうなのだろう。
 クラス会は毎年開くことになっていた。しかし令和2年の2回目はコロナの感染拡大で中止。去年も今年もやっていない。来年は開催出来るかどうか。やるなら是非参加して青木良子さんに会い、お母さんが和裁をやっていたかどうかを確認したい。もちろんそうならあの時の青木さんなのだろうから、50年近く前の私の悪態をお詫びしたい。申し訳ない気持ちは今も変わっていない。お母さんが存命なら、良子さんからそれを伝えて欲しいとも思っている。
 実は、話しはこれだけで終わらない。だからこのブログにわざわざ載せようと思ったのである。
 今月3日に母が94歳で亡くなったが、生前私の姉に「死んだら、お嫁に来た時の江戸褄を棺に入れて欲しい」と言っていた。お通夜の前日に姉と物置の桐簞笥を開けて探し出したら、70年近く前の生家の家紋入りの江戸褄の長着と帯や長襦袢などが見つかった。そして何とあのアンサンブルも一番下の引き出しに仕舞われていたのである。私は二重に嗚咽した。江戸褄とアンサンブルと二つの着物に対してである。もちろん言われたとおりに江戸褄は棺に入れた。アンサンブルはまだ手元にある。
 クラス会があったら青木良子さんにとにかく会って、アンサンブルのことだけでなく、江戸褄がそれを導いてくれた経緯も報告したい。
 亡くなった母にもし夢の中で会えて、今更ながらあの時の悪態を詫びることが出来たら、気丈な母はおそらく私にこう言うことだろう。「そんなことはもう憶えていない。それより博史、くよくよしていないでもっとしっかりしろ!」と。
 (注:アンサンブルと江戸褄を知らない場合は、ネットで検索すればどんなものかすぐに分かります)

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アンサンブルの思い出”にコメントをどうぞ

  1. 徳永楽遥 on 2022年11月23日 at 9:32 AM :

    6回目の寅年もまもなく幕を閉じようとしている今、かなり涙腺が緩くなった。このブログを読むうちに涙腺が反応してしまった。三上氏はこの文章を川柳のように刻苦した後、淡々と書かれたのであろうか。そうであろう。そうでなくては氏らしくはない。しかし胸の裡は愛する母親への慟哭の涙が溢れ流れている。以前ブログに書かれていたお母さんのことで、やはり私は涙を流したことがあったからである。
    先日の『朝明』編集会議の写真を見て、氏の顔を見て胸を撫で下ろした。せんりゅうの力、氏の強い生き方に感銘を受けた。

    • 三上 博史 on 2022年11月23日 at 7:55 PM :

       楽遥さん、ありがとうございます。
       少しずつ落ち着いてきました。また、読む会でお会いしましょう。

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