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 去年の7月30日のブログで「自動詞と他動詞の世界 | 三上博史ブログ (shinyokan.jp)」を書いた。最近の国会議員の旧統一教会(世界平和統一家庭連合)への対応について、メディアを通して眺めていると、あまりにも自動詞的に物事を運ぼうとしているのが見え見えで、喜劇を通り越している有様に私なりに何かコメントしてみたくなった。
 安部晋三元首相が凶弾に倒れたことにより明るみに出たこの問題は、例の合同結婚式騒ぎから、あるいはそれ以前からずっと続いていた。それらを知っている人にとっては、何も新しいことはない。事態が深く進行していただけのことなのである。政治家との関係も今更感が否めない。
 だから、今回表沙汰になっても当事者の国会議員の本音は困惑するばかりとなる訳である。そうなると、信念を持って対応するのではなく、作戦的には惚(とぼ)ける他に手段はない。厳しく追及されれば、神妙な顔を見せて言い逃れる。そしてさらに追及されても再び惚ける。これを何回も繰り返して何とかうまくやり過ごす他は方法がないのである。関係団体の会合へ出席したとかそこでスピーチしたとか、はたまたそのためにわざわざ遠い外国まで行ったとか、とにかくすべては忘却の彼方のことであるかのように話しを持って行く。外部から指摘されて初めて気がついたように演じるしかない。
 このプロセスの中で、いつの間にか自動詞的世界が展開されることとなり、すべての状況は他人事(ひとごと)のようになっていく。いや当事者はそのようにさせていく作戦を選んでいるのである。
 旧統一教会関係の集まりに参加した、祝辞を述べた、そこから寄付をもらった。これらの能動的な行動は他動詞(do動詞)的世界である。当事者の記憶の中にあることは間違いないと常識的には推定できる。そうではなくすっかり忘れていたとなるとその当事者の記憶力は相当怪しいと問題視しなければならない。それを状況変化のように巧妙な自動詞(be動詞)的世界にすり替えてしまう。記憶にない、などと宣うのはその典型的なやり方である。ロッキード事件が起きた50年近く前、国会の証人喚問においてよく使われ流行語となった台詞である。
 あたかも自分の知らないところで物事が運ばれていたというふうに持って行くのも自動詞的世界である。自分が全く関与していなければ、他動詞的表現が出てくることはない。調査した結果、集まりに自分が参加していた(他動詞)ことが判った(自動詞)、などと弁解すること自体が他人事として自動詞的に解決を図ろうとする(物事を誤魔化す)うまいやり方である。
 日本人の精神風土にある自動詞的な問題解決方法(物事はなるようになる、そのように物事を持って行く)は、政治の世界にも都合よくしっかり応用されている。追いつめられた政治家や官僚をうまく救ってくれている。この病的な対処方法は今後もなかなか治らないことだろう。だから日本の政治は変わらない。

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政治家の自動詞的弁解について”にコメントをどうぞ

  1. 坂本加代 on 2022年10月11日 at 8:56 AM :

    いつもブログ更新を楽しみにしています。
    日頃思うことをエッセイやブロブで遺していくということは
    とても大切で意味のあることだと思っています。
    共感している同時代に生きる者として嬉しく思います。
    ありがとうございます。

    • 三上 博史 on 2022年10月12日 at 8:37 AM :

       加代さん、コメントありがとうございます。素直に励みになります。
       何とか続けられるよう、これからも頑張っていきます。

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