30日の午後6時過ぎに鹿児島中央駅に着き、鹿児島市内に住む叔母のとろこに泊めてもらいました。従姉妹夫婦に従兄弟も集まって『桜島』という焼酎も飲みながらあれこれ積もる話をしました。叔母が秋に入院してたので体調を心配してたんですが、快復してて安心しました。
31日は朝9時から夫念願の桜島へ。バスで一回りしようと思っていたら、タクシーの運転手さんが「バスは噴火口近くまでは行かんから7000円で案内するが…」と言われるので、バスを待つ時間もおしいなと思いタクシーに。名所名所で車を止めてくれての丁寧な案内でした。林芙美子文学記念碑や、芙美子が通った小学校(今では廃校)。長渕剛がコンサートをした会場。西郷岩。高野素十の「初蝶の溶岩につき当たりつき当たり」の石碑、達筆すぎて誰の文学碑かわからなかったけど「わが愛す桜島あり西郷も大久保も見し火を噴く山ぞ」の石碑などもある展望台。霧島方面へ向かうという交差点を左にしばらく走った所で噴火口を見ました。タクシーは止めるたびに雪みたいに灰を被り、路傍の灰を被った赤い花が悲しく見え、土地の人の大変さを思いました。私が修学旅行で見た、霧島つつじに覆われた桜島の姿は想像もできないくらい、山は灰に覆われていました。帰りのフェリーでは名物のうどんを食べました。
そして、13時10分のトッピー船で屋久島へ。姉は安房の吊り橋の近くで居酒屋「屋久杉」をやっています。カラオケのあるお店で宴会に。のど自慢みたいに鐘の鳴るカラオケで、何故か途中ふざけて歌ったり歌詞が見えなくて歌えなかったりする夫が合格の鐘を鳴らしました。(プンです)
姉が「あのカウンターのところで、父ちゃんが『☆☆、大取りより小取りだよ(大きく儲けようととするより小さくコツコツ儲けなよ)』と言った」という話から、昔話になっていき、私が「なんと言っても、可哀想だったのは、お嬢さんだった△△おばさん(姉の母)だよね」
しばらくして、姉がケータイで誰かと話している。「△△だよ」といって私にケータイをわたす。「おばちゃん、お父さんのこと許してね」と言うと「なんも、済んだ事だかね。」と言ってくれて、また「私が小学校4年の時に☆☆姉ちゃんに誘われて、おばちゃん家に行った時、おばちゃんもおいさんもに何も言わんかったがねぇ(邪魔にしたり怒ったりしなかった)、」と言うと「覚えとらんがぁー」
そして種子島の叔母さんたちの事を聞き、もう全員亡くなっていると言うと「種子島に行ってもだい(誰)もおらんが、生きとるもん同士が仲ようせんばやからなぁ、☆☆と仲ようなぁ」とありがたいことを言ってもらえて、またひとつ心の荷が軽くなりました。
元旦の朝の屋久島は曇り空。兄が町内の人は無料で他所の人は200円という、朝7時からやっている温泉へ連れて行ってくれて、その後、林芙美子が『浮雲』を書いたとかいう旅館へ。私は林芙美子より平林たい子が好きで、林芙美子の本は読んでなかったので読まなくてはと思いました。温泉はつかるだけでいいと、洗顔クリームと歯ブラシしか持って行ってなかったんですが、温泉が薄くしたジェルみたいで気持ちが良く、洗顔クリームで髪まで洗っちゃいました。
午後3時45分のトッピー船で種子島に。従兄弟従姉妹たちが集合してくれていて、ここでは思い出話ではなく現在進行形の話を楽しみました。夫がまるで自分の故郷みたいにリラックスして最後の最後まで飲んでいました。
2日は生母の墓参り。残念な事に、叔父が亡くなってから息子さんたちは板金屋を畳んで家屋敷も処分して島を出ていて、墓参りをする人がいなくなっていました。お坊墓地と言って種子島家代々の墓地のある一角の隅にあるのに…。悲しかったです。その後、祖父母の墓参り。
夕方は、中学3年生の時のお転婆娘3人(私は担任に「嫁に行ったら三日で戻される」と言われてました)のうち島にいる1人と軽食とコーヒーのお代わりを2杯もしながらのお喋り。
3日は、島に居た間にすっごくお世話になり会わないで帰ることのできない幼な友達のお母さんに会い、また、父と仲良しだったおじちゃんの家へも行く。みんな元気だったのが嬉しかったです。そして菩提寺にお参りして、11時3分のトッピー船で帰路に。
海が凪ぎているか時化ているかで、自分が故郷に受け止められているかどうかの判断のひとつとする癖があって、今回の帰省は海が凪ぎていて安堵しました。
また、海に凪ぎで迎えてもらえるように「大取りより小取り」の父の教えを守りながら商いを続けていこうと思います。
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