Loading...Loading...

川柳の三恩人を偲ぶ「川柳忌・可有忌・花久忌」

~川柳の歴史を今に伝える三つの追善句会~

 私たちが今日「川柳」と呼んで親しんでいる五・七・五の文芸には、二百六十年以上にわたる長い歴史があります。その歴史を語るうえで、特に忘れてはならない三人がいます。それは柄井川柳、呉陵軒可有、花屋久治郎です。この三人は『誹風柳多留』の成立と普及に大きな役割を果たし、しばしば川柳の「三恩人」と呼ばれています。そして現在も「川柳人協会」では、この三人を偲ぶ追善行事として、

2月11日 花久忌
5月3日 可有忌
9月23日 川柳忌

を開催しています。

 単なる川柳大会や句会ではありません。川柳の先人を供養し、その功績を学びながら、現代の私たちが川柳を詠む――そこに三忌の大きな意味があります。

■柄井川柳――「川柳」の名を残した名選者

 初代柄井川柳は享保3年(1718)に生まれ、寛政2年(1790)9月23日に没しました。名は正通(正道とする資料もあります)、通称八右衛門。江戸浅草新堀端の龍宝寺門前で名主を務めながら、前句付の点者として活躍しました。宝暦7年(1757)、40歳のころから「万句合」を興行します。江戸中から膨大な句が寄せられ、その中から優れた作品を選び出しました。川柳の最大の功績は、何といってもその優れた「選句眼」にあったといえるでしょう。

 明和2年(1765)には、川柳が選んだ句を中心とする『誹風柳多留』初篇が刊行されました。その後、前句を離れて五・七・五だけでも鑑賞できる作品が広く読まれるようになり、「川柳」という一人の点者の号が、やがて文芸そのものの名称となっていきました。

 現在、世界でも「Senryu」と呼ばれていることを考えれば、一人の人物の雅号が二百年以上を経て世界に通じる文芸名になったことになります。まさに川柳史の原点に立つ人物です。

■「川柳忌」――9月23日

 柄井川柳の命日である9月23日に行われるのが「川柳忌」です。会場となるのは、柄井川柳ゆかりの東京都台東区・龍宝寺。柄井川柳は龍宝寺門前町の名主を務めており、同寺には墓や辞世句碑が残されています。毎年、追善供養とともに句会が開かれています。

 柄井川柳の辞世として、『木枯や跡で芽を吹け川柳』という句が伝えられています。「跡で芽を吹け」という言葉は、後世の川柳人にとって象徴的です。川柳翁の没後二百年以上を経た現在も、全国各地で新しい川柳が次々と生まれているのですから、その願いは見事に実現したといってよいでしょう。

■呉陵軒可有――『誹風柳多留』を生んだ名編集者

 二人目は呉陵軒可有(ごりょうけん・あるべし)です。可有については柄井川柳ほど詳しい生涯が明らかになっていません。しかし川柳史における功績は極めて大きなものがあります。可有は川柳評「万句合」に集まった作品の中から優れた句を選び、前句を外しても一句として意味が通じる作品をまとめ、『誹風柳多留』初篇を編集しました。つまり柄井川柳が「選者」であるならば、可有は優れた作品を一冊の本へとまとめる「編集者」の役割を果たした人物と考えることができます。可有自身も優れた作者であったと伝えられ、「木綿」という号でも知られています。数多くの句の中から、後世に残す価値のある作品を見抜く現代の句誌編集にも通じる仕事を、江戸時代に行っていた人物だったのです。

■「可有忌」――5月3日

 呉陵軒可有を偲ぶ「可有忌」は、毎年5月3日に開催されています。会場は川柳ゆかりの東京都台東区・龍宝寺です。可有の命日は天明8年(1788)5月とされていますが、詳しい日付など不明な点も少なくありません。その功績を顕彰するため、川柳人協会によって5月3日に追善供養と句会が続けられています。令和8年(2026)の可有忌も5月3日に龍宝寺で開催され、法要と句会が行われました。私もこの「可有忌」では選者を務めさせて頂きました。『誹風柳多留』という本がなければ、江戸の庶民が詠んだ膨大な名句の多くは散逸していたかもしれません。その意味で可有忌は、川柳の「編集文化」を築いた先人へ感謝する日ともいえるでしょう。

■花屋久治郎――川柳を世の中へ届けた出版人

 三人目が花屋久治郎(はなや・きゅうじろう)です。「久次郎」と表記される場合もあります。花屋久治郎は『誹風柳多留』初期の版元として知られています。柄井川柳がどれほど優れた句を選び、呉陵軒可有がどれほど見事に編集しても、本として出版されなければ多くの人に読まれることはありません。そこで大きな役割を果たしたのが出版人・花屋久治郎でした。柄井川柳が「選ぶ人」、可有が「編む人」ならば、花屋久治郎は「世に届ける人」だったといえます。

 『誹風柳多留』が江戸の人々に広く読まれ、後世まで伝えられることになった背景には、出版人としての花屋久治郎の存在がありました。

■「花久忌」――2月11日

 花屋久治郎を偲ぶ「花久忌」は毎年2月11日に開催されています。会場は東京都足立区・東岳寺です。東岳寺には花屋久治郎を顕彰する碑があり、川柳人協会によって追善供養と句会が続けられています。

 令和8年(2026)の花久忌も東岳寺で開催され、出席46名、投句92名。句会に先立って法要が営まれ、十六代目尾藤川柳氏による「花久忌」についての講演も行われました。私もこの「花久忌」に参加し供養をさせて頂きました。川柳を作った人でも選者でもない「出版人」を、二百年以上後の川柳人が今なお顕彰していることは、とても意味深いことだと思います。

■三人が揃って『誹風柳多留』を生んだ

 三人の役割を簡潔に整理すると、柄井川柳――選ぶ人、呉陵軒可有――編む人、花屋久治郎――世に届ける人となります。そして三人を結び付けたものが、明和2年(1765)に初篇が刊行された『誹風柳多留』でした。『誹風柳多留』はその後長く刊行され、全167篇に及ぶ一大川柳集となりました。三人のうち誰か一人でも欠けていたら、現在の「川柳」は違った姿になっていたかもしれません。

■川柳人協会が守り続ける「三忌」

 現在、この歴史を大切に受け継いでいるのが川柳人協会です。川柳人協会は昭和23年(1948)に設立されました。現在も三忌を重要な年間行事として位置づけています。日程は毎年下記の通りです。

2月11日 花久忌――花屋久治郎
5月3日 可有忌――呉陵軒可有
9月23日 川柳忌――柄井川柳

 さらに11月23日には「川柳文化祭」が開催され、川柳文化賞の表彰なども行われています。三忌が今日まで続いていること自体、川柳という文芸が自らの歴史を大切にしてきた証しではないでしょうか。

■三忌は「過去」ではなく「未来」のためにある

 三忌というと、先人を偲ぶ古い行事という印象を持つ方もいるかもしれません。しかし私は、むしろ未来の川柳のためにこそ大切な行事だと思います。自分たちが楽しんでいる川柳が、いつ、どこで、どのような人たちの力によって生まれ、今日まで受け継がれてきたのか。その歴史を知れば、一句を作る気持ちも少し変わってくるのではないでしょうか。

柄井川柳が選び、
呉陵軒可有が編み、
花屋久治郎が世に届けた。

 その三人が蒔いた種から、270年を経た現在も、新しい川柳が芽を吹き続けています。そして、その芽を次の世代へ渡していくのは、今を生きる私たち川柳人の役目なのかもしれません。三忌を単なる追善句会としてではなく、「川柳の原点を確認し、未来へつなぐ日」として、これからも大切にしていきたいと思います。『木枯や跡で芽を吹け川柳』その言葉どおり、川柳の新しい芽を絶やさないためにも。

柳山

ポストする LINEで送る ブックマーク
❤️ ひざポン
ありがとう!

「なるほど!」「いいね!」
心が動いたらポチっ(無記名)

コメントはこちらから

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Post Navigation

Copyright All rights reserved. SHINYOKAN PUBLISHING illustration by Nakaoka.K