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『誹風柳多留』~柄井川柳・呉陵軒可有・花屋久治郎の功績

 今日、私たちは五・七・五の十七音で人間や社会を詠む文芸を、当たり前のように「川柳」と呼んでいます。しかし、そもそも「川柳」はどのようにして独立した文芸になったのでしょうか。その歴史をたどるうえで、決して外すことのできない句集があります。それが『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』です。『誹風柳多留』は単なる江戸時代の川柳句集ではありません。前句付から生まれた五・七・五を、独立した一句として人々が楽しむ道を大きく開いた、川柳史上きわめて重要な存在なのです。

■『誹風柳多留』はいつ生まれたのか

『誹風柳多留』の初篇が刊行されたのは、明和2年(1765)のことです。その後、長期間にわたって刊行され、最終的には167編という膨大なシリーズになりました。当時盛んだった文芸の一つに前句付」がありました。これは、あらかじめ出された前句に対して五・七・五の付句を作るものです。したがって本来、付句は前句と組み合わせて味わうものでした。

 ところが、数多く作られた付句の中には、前句を取り除いて五・七・五だけを読んでも意味が分かり、しかも人情や世相を巧みに表現した面白い句がありました。そこで、そうした優れた句を選び、前句を省いて集めたものが『誹風柳多留』でした。ここに川柳史上の大きな転換が起こります。

■「付句」が「独立した一句」になった

 『誹風柳多留』の最大の意義は、五・七・五を前句から離して鑑賞する習慣を広めたことにあります。それまでは、前句+五・七・五の付句という関係の中で作られていたものが、次第に、五・七・五だけで完結する一句として読まれるようになっていきます。つまり、『誹風柳多留』は「付句」を「作品」へと押し上げる大きな役割を果たしたのです。

 現代の私たちが川柳一句を単独で読み、その中から作者の思い、人間の機微、社会への視線、笑いや皮肉などを読み取る――その遠い源流の一つがここにあります。

■柄井川柳――優れた句を見抜いた「選者」

 その中心にいたのが、初代柄井川柳(からい・せんりゅう)です。柄井川柳は「川柳評万句合」の点者として、多くの人々から寄せられる前句付を選びました。つまり柄井川柳自身がすべての句を作ったのではありません。数多く寄せられる作品の中から優れた句を見抜き、評価する「選者」として大きな力を発揮した人物でした。『誹風柳多留』初期の句は、この万句合などから選ばれたものです。一般に初篇から24編前半までは初代柄井川柳の選によるものとされ、この時期には特に優れた句が多いと評価されています。

 やがて「川柳」という一人の点者の名前が、五・七・五の文芸そのものを表す名称となっていきます。一人の人物の名が、今日まで続く文芸ジャンルの名称になったことを考えると、その影響の大きさには改めて驚かされます。

■呉陵軒可有――「誹風柳多留」の初期編集者

 しかし、『誹風柳多留』の成立を柄井川柳一人の功績として考えることはできません。ここで重要な人物が、呉陵軒可有(ごりょうけん・あるべし)です。呉陵軒可有は『誹風柳多留』初期の編者として知られています。柄井川柳が選んだ膨大な付句の中から、前句がなくても意味が通じ、一句として楽しむことのできる作品を集めて書物にする。そこに編集者としての大きな役割がありました。「優れた句が存在する」ことと、「優れた句が後世に残る」ことは同じではありません。作品を選び、整理し、一冊の本として読者へ届ける人が必要です。その意味で呉陵軒可有は、柄井川柳の選句を「読まれる作品集」へと変える橋渡しをした人物といえるでしょう。

■花屋久治郎――『誹風柳多留』の出版者

 そしてもう一人、忘れてはならない人物が版元の花屋久治郎(久次郎などの表記もあります)です。初期の『誹風柳多留』は、江戸の版元・花屋久治郎から刊行されました。どれほど優れた選者がいても、どれほど優れた編集者がいても、本として出版され、人々の手に届かなければ広く社会に定着することはありません。花屋久治郎という出版者の存在によって、『誹風柳多留』は商品として江戸の読者へ届けられました。ここには現代にも通じる、作者―選者―編集者―出版社―読者という文芸を支える仕組みの原型を見ることができます。

 川柳は句を作る人だけによって育ったのではありません。句を選ぶ人、編集する人、出版する人、そしてそれを楽しむ読者がいて、初めて一つの文化として成長していったのです。

■『武玉川』から『誹風柳多留』へ

 『誹風柳多留』以前にも、優れた付句を集めた雑俳集がありました。その代表的なものが『武玉川(むたまがわ)』です。『誹風柳多留』も『武玉川』を範としたものとされており、川柳の成立は突然起こったものではありません。大きな歴史の流れとして見れば、

前句付・雑俳⇒『武玉川』などの付句集⇒柄井川柳の「川柳評万句合」⇒『誹風柳多留』⇒川柳風・狂句⇒近代川柳⇒現代川柳 という一つの系譜を描くことができます。

■『誹風柳多留』が残した五つの功績

『誹風柳多留』が川柳界に残した功績を整理すると、私は次の五点が特に重要だと考えます。

第1は、江戸時代の優れた前句付を大量に後世へ残したこと。

第2は、前句を離れて五・七・五だけを鑑賞する流れを大きく促したこと。

第3は、江戸庶民の生活、人情、風俗、笑い、皮肉、世相を十七音の中に記録したこと。

第4は、後に「川柳」と呼ばれる文芸の性格を形成する大きな基盤となったこと。

第5は、選者・編集者・出版者・読者という川柳文化を支える仕組みを形づくったこと。

■「川柳」をつくったのは一人ではなかった

 川柳の歴史を振り返るとき、どうしても初代柄井川柳に注目が集まります。もちろん、その功績は計り知れません。しかし、『誹風柳多留』という視点から見ると、川柳という文芸が成立し、後世へ受け継がれていくためには、複数の人物の力が必要だったことが見えてきます。

柄井川柳が選び、呉陵軒可有が編み、花屋久治郎が世に送り出した。

 そして、その本を江戸の人々が読んで楽しみました。この連携があったからこそ、前句付の中にあった五・七・五が、やがて独立した文芸として歩み始めることができたのではないでしょうか。

■現代の川柳人へ受け継がれたもの

 『誹風柳多留』初篇が刊行された1765年から、すでに260年以上が経っています。時代は大きく変わりました。しかし、人間を見つめ、暮らしを詠み、世相を映し、そこに笑いや皮肉、哀歓を込める川柳の精神には、『誹風柳多留』の時代から現代まで通じるものがあります。川柳の原点を知ることは、これからの川柳を考えることでもあります。

 『誹風柳多留』をひもとけば、260年前の江戸の人々の笑いや涙の向こうから、現代の私たちが詠んでいる「川柳」の原点が見えてくるのではないでしょうか。

柳山

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