前回の人生相談の話題の続きである。
人生相談は読み物として扱うべき場合と、実際にためになるなぁと感じる場合の二通りがありそうな気がする。読み物として読むなら、その回答に納得したり共感したりしなくても構わない。おもしろいかそうでないかの判断で読み進めていけばいいだけのことである。
問題はためになるかどうかの実用性の見地からの読み方である。相談する当事者は深刻に問題意識を抱えているから、わざわざ投稿したりや電話をかけてきたりする訳である。回答内容に釈然としないものが残った場合は、空振りの答えとなる。微妙に論点をすり替える答え方は、読者という第三者の立場から見て、応え方(対応の仕方)そのものに疑問を持ってしまう。これは、前回述べた逃げ腰になっているような結論が出された時である。きちんとした回答を与えてくれれば、読者の心にも沁みてくるものがあるはずである。
読売の人生案内にも回答についての濃淡があり、これは適切な「答え(回答)」なのか単なる「応え(対応)」なのか、篩い分けしたくなる時がある。
かなり以前に、こんな相談があった。記憶が曖昧になっているが以下に紹介したい。
若い新婚女性の相談で、夫の実家へ行き、ご馳走の料理を家族みんなで食べる際のことである。大皿に盛ったものだったり、鍋料理だったりいろいろなものが出されるらしい。その実家では、各自が勝手に自分の箸で料理を分け合って食べる習慣になっている。相談者はそれがどうも馴染めないらしい。自分の育った家庭では、マナーや衛生面を踏まえて家族間でもきちんと取り箸を使って分け合うやり方を守っている。だから、そうではない家の会食に行くことは気が重い。どうしたらいいかということである。
どんな回答者だったかはすっかり忘れてしまったが、回答は夫にもその悩みを打ち明けて、勇気を持って実家の人(夫の両親)に話して、食べ方の改善をしてもらうようにしたらどうかというものだった。相談者の言い分も、衛生上のことや一般的なマナーの見地から納得できるとも言っていた。なお、この相談はコロナという感染問題が発生する以前のことである。
私も子供の頃は神経質的なところがあって、こういう話題にはかつての自分の振る舞いを思い返すようで共感するものがあった。しかし私の場合、長ずるにつれ、衛生的な考え方というものは実に主観的なものであることに次第に気がついてきた。
こういうことを言うと感染症の専門家の反論が来るだろうが、コロナ騒ぎの時の医学的な見地から推奨された感染予防対策が、いかにも客観的な根拠に基づいているかのように啓発して、内実かなり主観的だったことを思い起こす。それしか方法がなかったから、やむを得ず渋々その対策を受け入れていた側面があった。だから当時の総理大臣が、コロナが蔓延している渦中でステーキ会食などを平気でやらかしていたのである。これだってメディアにバレたから大騒ぎになっただけで、当人はどこまで反省していたかは不明である。
当時の医療関係者の衛生観念に対する愚直なまでの啓発活動について一応は敬意を表するが、感染対策への周知徹底を図れば図るほど、一般市民の意識に潜む疑念も膨らんでいったはずだ。変わっていなかったのは、もしコロナに感染してコロナを発症した場合、重篤になることがあるという恐ろしさだけだったろう。
もう一つは、神経質な性格というものは大人になり、仕事・結婚・子育て・自身の加齢による身体の衰えなど、いろいろな人生経験をしていく過程で次第に弱まってくるはずだということである。典型的なものが子育てなのではないか。我が児の衛生面での躾けに細心の注意を払おうとしても限界がある。一生懸命頑張っても虚しくなる場面がいずれきっと出てくる。取り箸を使うかどうかはトリビアルなことだといつかは気がつくはずである。回答者はそのことには全く言及していなかった。あくまでも世間の望ましい礼儀作法に基づいた建前論に終始した答え方だった。これは衛生面のことを否定したら、読者からのクレームが来ることを想定していたのではないか。「答え方」ではなく「応え方」だったのである。
かつて「何が汚い!のか?」(2020年11月7日)を書いたが、汚さの客観性と主観性、さらにその相対性について、医療関係者はいつもそのことに言及せず議論を素通りしてる。これは永遠の課題なのかもしれない。だから人生相談に出されても、「応えても答えられない」結論になるのだろう。取り箸を使ってくださいとお願いしたらどうかという回答の顚末も多分虚しい展開になっていたと思う。
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