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 6月22日(土)に観たNHKのEテレ特集「私と先生とピアノ」(再放送、初回放送日は2023年11月4日)で思ったことがあるので記したい。
 番組ホームページには以下のように紹介されている。

[ももちゃんは17歳の沖縄の少女、青春は「ピアノ」そして「戦争」だった-学徒動員によって沖縄戦の戦場に駆り出された222人の「ひめゆり学徒隊」の少女たち。その悲劇的な最期は語られてきたが、どのようにして苛酷な戦場に立つようになったかは知られてこなかった。生還者の証言を元に、戦世が忍びよる様を証言とドラマで描く。少女の眼にはどんな日常が映っていたか。かけがえのない時が損なわれ、変容していく世界とは?]

 ひめゆり部隊のことは、いろいろなところで既に何度も紹介されているので多くの人が承知していると思う。しかしこのドキュメンタリードラマを観て、改めてその悲惨な出来事を学び直した。私には二つのことが印象的だった。
 一つは、生き残った女子学徒の証言として、この動員は数週間で役目を果たせるだろうと、あまり深刻には思っていなかったということである。まさかこんな悲惨な状況に遭うとは誰一人想像していなかった。顚末を知っている後世の人間と、その時の当事者の思いのズレを改めて実感した。誰も死に行くために手を挙げて参加するようなことはしない。出征兵士でもひめゆり学徒でも、その辺は同じような意識と認識なのだ。なぜこんな無謀なことをしたのだと、すべてが終わってから部外者が憤慨してみても、その当時はそれなりの考え方に基づいて物事は展開し(歴史の必然性と言ったら大袈裟だろうが)、具体的に状況は推移していく。戦争ドキュメンタリーを観る場合は、当時の人間の気持ちに丁寧に寄り添うことが大切である。その当時は仕方がなかった、そういう総括にもそれなりの理屈が成立しているのである。後世の人間はとかく結果論から原因を追究して責任論を展開する。そして誰かを非難したがる。慎重になるべきだろう。
 もう一つは、この部隊結成を積極的に推し進めた校長のことである。無残な結末になったが責任をとった訳ではない。番組では最後まで匿名で紹介され、戦後某国立大学の教授になったとテロップが流れて締めくくられた。その人が誰なのか気になる思わせぶりな終わり方だった。
 すぐにスマホでその辺のことを検索した。名前が全く分からなくても簡単に特定できた。どこの国立大学なのかも判明した。いろいろ調べると、やはりこの校長を厳しく指弾する文章にいくつも出遭う。部隊の中で生き残った女性が強く非難する証言も紹介されている。ネット社会は改めて凄いと感じる。古い情報でも探し出せないものがないくらいに何でも探せる。ネット以前と以後とでは、革命的な変化が起きたことを今更ながら実感した。
 さて、大東亜戦争における言動で戦犯のレッテルを貼られた政治家や軍人はたくさんいる。それらは東京裁判で裁かれた。さらに、当時の学者や教育者の中にもその立場としての責任を追及されておかしくない者はたくさんいた。この校長もその一人ということになるだろう。でも、仮にそのことを校長当人に問い詰めてみたとしても、それなりの反論、自分を正当化する弁明で終わってしまうのではないか。議論はおそらく平行線を辿ることだろう。ここが難しいところである。
 私が大学生だった頃、講義を受けた教授クラスの教員は大正生まれがほとんどで、出征やシベリア抑留など、身をもって戦争の悲惨さを体験した世代だった。授業の合い間に戦争の話題を持ち出すことも多かった。その中で、後出しじゃんけんのように「私は日本が負けると思っていた」などと話されると少し戸惑うこともあった。その発言にどういう意味合いがあるのか、汲み取りようがなかったからである。
 同時代を生きてこなかった者は、戦争という過去の出来事に対してどう向き合い続けるべきなのか。戦争を語ってくれる経験者も少なくなってきた。向き合う者も少なくなってくるだろう。

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