高校生(男子校)の頃、学校の近くで民家の火事が発生した。消防車のサイレンが鳴り響き、授業中にもかかわらず生徒のみんなが校舎の屋上に駆け上がり、遠見で現場を眺めていた。全員が野次馬である。煙がもくもくと上がり、炎が大きな塊となって暴れている。その凄さに圧倒されながらも、わあわあと喚声を上げてみんなが騒いでいた。私もその一人だった。
しばらくすると、火事が起きた家の隣家の人達が、類焼の前に何とかしようと必死で自分の家の布団や箪笥などの家財道具を運び出す光景が見え始めた。その時初めてその火事の悲惨さが分かった。少なくとも私は声を上げて騒ぐ気はしなくなった。
それから二十数年が経って、2001年9月11日、アメリカで同時多発テロが発生した。世界貿易センタービルにハイジャックされたジェット機が突入した事件が一番凄かった。日本時間の夜中に起きたことだが、翌朝のテレビ報道でその突入シーンを観た時、これはまるで映画のワンシーンではないかと我が目を疑った。凄い、凄すぎると思った。そう思うことに対して不謹慎だとは思わなかった。その恐怖と悲惨さに気づいたのはその後しばらく経ってからである。
悲惨なことを悲惨なものとして受け止めるには時間が要る。いきなりの悲惨はない。衝撃だけである。記録映像を繰り返し見ながらその悲しみと惨さを理解していく。悲惨さが身に染みるまでには想像する時間も必要なのである。広島・長崎の原爆投下、福島第一原発の爆発・メルトダウンなども同じことであろう。
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