昭和60年前後の頃のかなり古い話しであるが、長く法曹界で検事として働いていた方ががんで亡くなった。その奥さんが看病しながら闘病の手記をまとめていて、ある雑誌に載せていた。
掲載された文章についての記憶はかなり曖昧になってしまったが、検事という職業柄か、その方は淡々とがんと向き合い、最期まで冷静だったことが記されていたことだけははっきり憶えている。いや正確に言えば、死の数日前に譫妄みたいな症状が少し現れたようだったが、それ以外は担当医や家族とのやりとりは常に素直なもので、何か問題が起きるようなことほとんどなかった。当人は少しずつ心の準備をしながら、死への覚悟を決めていたのである。
生前病院のベッドに横たわりなりながら、奥さんに口癖のように話していたことは、「人間は死ねば粗大ゴミである」という極めてクールな死生観だった。この手記を読んだ当時、私はまだ20代だったが、なんと冷静沈着な考え方の持ち主なのだろうと強烈な印象を持ったものだった。ヒステリックになるところが全く無かったのである。若かった私には全く以て想像できない境地だった。
死ぬ際にも人間は自我の防衛機制が働く。少しずつ観念しながら、死を迎えるにあたって穏やかな表情になっていくことも防衛機制の一つである。防衛のためには苦しみを陶酔に昇華させる必要がある。どんなに苦しんでいても最終的には誰でも安らかな死に顔となる。病気、怪我、自殺、他殺といろいろな死に方があるが、無念の極みみたいな表情のままになることは有り得ない。それはドラマや映画だけの演出された世界である。
死んだら昇天する、仏様になるというのも、死んでいく当事者と残された側の勝手な思い込みであろう。死後の世界をいろいろと想定することも同じである。検事だった人が言っていたように、人間は死んだら粗大ゴミ以上でもそれ以下でもない。それが事実であり真実である。でもそれではやりきれないから、死なれた事実、死んだ真実を何とか受け入れようとして宗教的な仕掛けを思いつく訳である。今わの際などというが、それがどういう心境になるのか、もちろん誰も分からない。
検事だった人の死に方でもう一つ印象的だったのは、常に冷静に淡々と死へ向き合いながら、それでも譫妄の状態があったという人間らしさである。無意識の中を垣間見せるような現象に対しても私は素直に惹かれてしまう。意識と無意識という二面性の矛盾は当人の精神構造の中でそれなりにうまくまとまっているのではないか。人間存在そのものが矛盾しているものであるその深みを教えてくれるようでもある。
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