馬というと、競馬に出てくる競走馬の大きさを一般的にイメージするが、日本に古来から存在する在来種はかなり小柄であった。肩までの高さが100~135cm程度だったようで、競走馬(サラブレッド)の160~170cm程度に比べるとかなり低かったと言える。体重もそれに比例して相当軽かったのではないか。今は数が減って滅多にお目にかかれなくなっている。
だから競馬場で走る馬は勿論のこと、時代劇などで登場する馬、どこかの神社などの流鏑馬で使われる馬は明治以降に外国から輸入されて繁殖されたものとなる。日本の馬の在来種のことがあまり知られていないので、時代劇でサラブレッドのような大きな馬が使われていても、それは時代考証的に不自然であることにはなかなか気がつかない。昔から日本の馬は人間の背丈を遥かに超えた存在のものばかりだったと勘違いしてしまう。
こういった勝手に物事を遡及させてあたかも昔からそうだったと思い込んでしまうことは、馬の大きさだけではなく、いろいろな思考形態や価値観にも現われてくる。
時代劇や歴史小説などに登場する人物のものの考え方が現代人と同じようなパターンだったりすると、私などはかなり疑問に思ってしまい、場合によって大変興醒めしてしまう。自由と平等、戦争と平和、国家と人権などは勿論のこと、恋愛に関する感情表現なども、明治以降の輸入された感覚や道徳観念のものが多い。昔の日本にはなかったものの考え方が平気で明治以前の物語の中に取り入れられていたりする。
逆に明治以降に新たに輸入された思考や論理だから、それ以前は日本人のものの考え方として存在しなかったかと言えば、そんなことはなく日本独自に発展していった西洋とパラレルな考え方も存在する。
通俗的な時代小説をエンターテインメントとして単に面白可笑しく楽しむだけの人物描写ならいいが、歴史的現実は、例えば平安時代や鎌倉時代などの人間の価値観や倫理観、人生観や社会観を調べた場合に、現代から見たら恐ろしいほどの違和感を感じさせるものが出てくるのではないか。しかしそれを抉ったような現実感を物語の中に書き入れたとしても、なかなか読む者に納得されず、結果的にはあまり売れることはないのではないか。やはり現在に引き寄せて、現代人の感覚に合わせて登場人物の社会観・価値観・倫理観を織り込まないと共感は得られない、俗受けしないのである。
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