文部科学省は昨年の12月19日、世界トップ級の研究力をめざす「国際卓越研究大学」の第2期公募分を審査した結果、新たに東京科学大を選ぶと発表した。東北大に続く認定で、京都大も候補に内定した。一方で、東京大は継続審査が必要として保留とした。東京科学大学は2026年度以降、政府の10兆円規模の大学ファンドから最長25年間の支援を受ける。2026年度以降、この大学ファンドから最長25年間の支援を受ける。初年度は100億円以上となる見通しである。このニュースは大きな話題となっていたが、私にはこれを読んで個人的に思うことがあった。
平成の時代に入ってから国公私立を問わず大学間の研究競争が激しくなっており、受験生が想定したがる偏差値の高い大学イコール研究レベルも高い、という単純な図式が当てはまらなくなってきた。裏を返せばチャンスはどの大学でも平等に与えられているということである。
その頃から「競争的資金」という専門用語が一般的にも使われるようになった。その名のとおり、国などから交付される研究資金を各大学が応募して競争するように分け合う制度である。よく科研費と呼ばれる科学研究費助成事業は有名であるが、こういう資金の種類が増え、その獲得競争も激しくなってきた。
大学事務員として私も研究事業の案件にいろいろと関わってきたが、研究の推進・支援についての事務組織の拡充は、どこの大学でも少しずつ進んでいった記憶を持っている。産学連携などと一時期よく言われたものだったが、今や産学官公連携が当たり前となっている。ちなみに、産は産業界、学は学校、官は国、公は地方公共団体のことである。連携という名目で大学は外部からの研究資金の確保に努める。それがその大学のプレステージを上げることにつながる。
私が関わった中で、今でも記憶に強く残っていることがある。定年を迎える数年前のことだった。研究事業に係る公的補助金・交付金、民間からの助成金など、事務的に広く扱う専門の部門が学内にいよいよ組織化されたのである。大学として、攻めの姿勢で取り組まないと研究成果は上げられないという方針のもとに、専任の事務スタッフがいろいろなところから異動となって配置された。
教員の教育研究業績に関するデータベースが私の勤務する大学にはまだ整っていない。総合大学では当たり前のように運用して公開されているというのに本学は遅れをとっている。新規にシステムを立ち上げなければいけないのではないか。それなりの経費を要する事業なので、上層部への説明も丁寧に進めないといけない。当時の私は大学経営の企画全般を担当する部門に所属していたので、他大学の整備状況を調査して実現に向けた素案を考えることが任された。
ネットで検索して調べてみると、これが結構おもしろい。いくつかの総合大学をピックアップし、ホームページからその状況を覗いてみると、大学によっていろいろな個性があることに気がついた。各大学の教育や研究に対する向き合い方がシステム構築に反映されていることが判ったのである。そんな手応えを感じてくると、仕事をしながら改めてやりがいを感じる。自分なりのこだわりを持つようになり、手本となりそうな大学がいくつか出てきた。
紆余曲折を経て整備プランが出来上がり、研究事業の事務局になっている部門に提示した。直接出向いて説明したが、そこの所属長以下、あまり乗り気ではない。仕事が増えること自体が歓迎されていない。さらにプランのことが分かっていない。そもそも分かろうともしない。うーん、これは持久戦である。私も辛抱しないといけない。何度も交渉して次年度に事業計画がやっと予算化することができた。
これで一安心かと思いきや、実際に事業を執行する年度になってから、(別に出しゃばった訳ではないのに)お前が言い出しっぺなのだから、システムの立ち上げにずっと関われと言ってきた。ここで喧嘩をしても始まらないと私も我慢した。システム構築を委託する業者を選定する際に行うプレゼンテーションにも言われたとおり立ち会った。個人的に興味がなくもないので、オブザーバー的に出席したのである。そんなこんなの経緯、いろいろな手続きを経て業者がようやく決まった。
驚いたのは、システムが完成したらその運用は自分のところだけではやらない、お前のところでも関われ、と宣ったのである。私は呆れ返った。こういった事業を企画部門が担当することなど、他大学では聞いたことがない。最初から最後までやる気ゼロ。余計な仕事はやりたくない。なんでやらなきゃいけないのだ。こういった消極的な意識に満ちた部門だったのである。私が一人相撲した訳ではないが、相手方の顔ぶれを眺めると、アカデミックなこととは縁遠い感じの者ばかりだった。そんなボンクラな面子(これは言い過ぎか)を人事当局はよく搔き集めたものだなという印象を密かに持った。
その後なんとか事態は収まり、その部門で渋々とシステムの運用もやってくれるようになった(当たり前のことだが)。大学における新たな研究事業への取り組みというものは、その大学の存続にまで影響してくることなので、積極的に行動を起こす姿勢がないととても務まらないと感じたものだった。
今回の国際卓越研究大学の話題について個人的に言及すれば、研究事業に係る事務対応としては最大級の労力を要する仕事になったはずである。裏方にいる事務局の当事者も大変だったろうなあと勝手に想像した次第である。
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文部科学省で思いましたが。
日川協主催の川柳大会における第1位は文部科学大臣賞です。これはいわば、「これが今回最も優れた川柳でございます」とお国にお墨付きをいただく構図です。
となると、体制批判の時事川柳はまず上げにくい。貧困や介護など社会問題を扱ったもの、ネガティブな作品も忖度の対象になる。結果として、表現として無難な川柳が上位を占める傾向があると見ています。
裏を返せば、無難でない川柳が弾かれているわけです。賞の権威が、川柳本来の批評性を損なうという弊害が出ているのではないでしょうか。
どう思われますか?
与生さん、コメントありがとうございます。
文部科学大臣賞になるような作品の選考に何度か立ち会った経験がありますが、どれも具体的な審査基準などはなかったですね。某大会などでは、入選句の中から賞になる特選句を順に並べていく基本的な取り決め(一位は文部科学大臣賞になる)すら議論されていませんでした。あまりの杜撰さに私は内心呆れ返りました。何とか大臣や何々知事と名のついた賞の選考とは所詮そのレベルなのでしょう。芥川賞・直木賞の選考のように審査員の間で徹底した議論をしたらどうか。そんなことも思いつきました。
与生さんの意見について言及しますと、確かに無難な作品が評価される傾向があります。無難とは、世間は決して捨てたものではない、人間同士はいつか分かり合える存在である、物事はなるべく善意を持って受け取りましょう、など社会や人間を好意的に詠んだものが入選しやすい傾向のことでしょう。その反動として、諷刺の効いた社会批判に基づく時事川柳が存在します。
まっ、こういった二者の傾向がバランスをとっているのが川柳なのかもしれません。
私個人は両者とも好きです。川柳の楽しみ方の「二刀流」です。これで自分の心のバランスも保っています。
なお、私はもう賞にはほとんど興味がありません。